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  3.   <title>内田樹の研究室</title>
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  8.   <subtitle>みんなまとめて、面倒みよう – Je m&apos;occupe de tout en bloc</subtitle>
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  12.   <title>『変調「日本の古典」講義』まえがき</title>
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  16.   <published>2017-11-21T04:04:38Z</published>
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  27.      <![CDATA[<p>はじめに</p>
  28.  
  29. <p>みなさん、こんにちは。内田樹です。今回は安田登さんとの『論語』と能楽をめぐる対談本です。<br />
  30. 安田さんとお話するのは、僕にとって最大の楽しみの一つです。とにかく安田さんも僕も「変な話」が大好きなので、どんなトピックでおしゃべりしていても、「話がきちんとした合理的な結論に到達しそうな道」と「話頭は転々奇を究めて、何が何だかわからない話になってしまいそうな道」があると、必ず後の方を選んでしまいます。結論とか教訓とか一般性とか、そんなことははっきり言ってどうでもいいんです。それより、安田さんからこれまで一度も聞いたことのない話を聞きたい、自分もこれまで誰にも言ったことのない話(これまで一度も僕の脳裏に浮かんだことのない話)をしたい。そういう対話相手って、なかなかいません。<br />
  31. もちろん、「変な話」をする人は世の中にたくさんいます。でも、そういう人たちはしばしば自分の話に夢中になると、こちらの話は拾ってくれないんですよね。自分の十八番の「変な話」をまくしたてられると、そのうちなんだか録音したものを聞かされているような気になって、げんなりしてきます。<br />
  32. 「変な話」のし甲斐があるのは、お互いに「変な話」に没入しつつ、時折相手の話題を素材に繰り込みながら、さらに「変な話」を広げ、深めてゆくというかたちのものです。そういう対話相手として安田登さんは望みうる最高の相手です。<br />
  33. 本書で披歴されている「変な話」やそれに付随するトリヴィア的雑学はとくに読者の皆さんが今すぐに了解しなければならないほどに緊急性のあるものではありません。なにしろ「論語」と「能楽」ですからね。2500年前の学術と650年前の芸能の話ですから、速報性も緊急性もぜんぜんありません。<br />
  34. それにこの本に収録されている対談そのものが、もうずいぶん前に行ったものなんです(ものによっては7,8年前)。それを祥伝社の栗原さんにテープ起こししてもらって、データにしてもらって、それに加筆するという仕事を僕も安田さんもずいぶんのんびりとやりました。時事的なトピックを扱った新書なんかの場合だと、原稿が半年も遅れると「もうそんな話に誰も興味示さないので、出版しません」というような悲痛なことが起こりますけれど、本書の場合はそういう心配がぜんぜんありません。出版が5年や10年遅れても、書かれていることのリーダビリティは揺るがない。主題が主題ですから、そうでなくては困ります。<br />
  35. でも、今回久しぶりにゲラを読み返してみて、たいへん面白かったです(書いた当人が言うのも何ですが)。だいぶ前のものですと、本人も何を話したのか覚えていないので、自分の発言を読みながら、「え? それで、それで、どうなるの?」とどきどきするということさえありました。「自分で言ったことくらい覚えておけよ」というお叱りもあるでしょうけれど、「売り言葉に買い言葉」ならぬ「安田さんの『変な話』に対抗してさらに『変な話』で応酬」ということを必死でしていたせいで、そのとき思いついて、そのまま忘れてしまった話というのが多いのです。書いた本人が読んでも面白いくらいですから、読者においておや。<br />
  36.  <br />
  37. 安田登さんと知り合ったのは、どういうきっかけだったでしょうか。もう10年以上前、たしか『ブロードマッスル活性術』という本がうちにありました。ロルフィングをしている頃の安田さんが書かれた本です。うちの奥さんが持ち帰ってきた本だと思います。暇な日にこたつでごろごろしているとき手に取りました。僕はそういう「ハウツー本」というのはあまり読まないのですけれど、その日はたまたま「本と目が合う」ということが起きたようです。そのまま一気に最後まで読んでしまい、世の中にはおもしろいことをしている人がいるなと感心して、さっそく次の週から「ブロードマッスル合気道」というものを道場で実験してみました。するとこれがたいへん効果的であった。そこで奥さんに「この本、すごく面白かった。役に立った」と感想を述べたら、「私、その本書いた安田登さんと一緒に箱根神社で子どもに能を教えています」とのこと。おお、これは意外な縁が(ちなみにうちの奥さんは大倉流の小鼓方です)。<br />
  38. そのうち、たぶん奥さんが安田さんに箱根で会った時に「内田が安田さんの本を面白がってました」と伝えてくれたのでしょう、安田さんが横浜のカルチャーセンターで能楽講座をするのだけれど、そのゲストスピーカーとして来てくれないかというオッファーがありました。喜んでお受けしました。それがたぶんお会いした最初だったと思います。<br />
  39. そのとき講座で対談し、打ち上げで行った中華街でもそのまま話し続けました。そのときにたまたま祥伝社の栗原さんが同席されていて、「この二人のとりとめのない話を本にしたら・・・」と思った成果が本書であります(と思ってから本になるまでたいへんに長い時間がかかりました。栗原さん、遅くなってほんとうにすみませんでした)。<br />
  40. もしかすると、新潮社の『考える人』で連載していた、僕がホストとして身体技法の名人たちとお話しをする「日本の身体」シリーズの第一回ゲストを安田さんにお願いしたのがお会いした最初かも知れません。昔のことなので、記憶が定かではありませんが、いずれにせよ、最初にお会いしたときに「この人とは長いつきあいになりそうだな」と思ったことはたしかです。<br />
  41. それから後は安田さんの主宰する「天籟の会」のイベントにお誘い頂いたり、僕の道場である凱風館に来て頂いたり、いろいろなところでお話をしてきました。<br />
  42. この対談本にはその10年近い二人のおしゃべりのエッセンスが漏れなく収録されています。トリヴィア的なことはあちこちでもっと話していますけれど、「エッセンス」はここに尽くされていると言ってよいと思います。</p>
  43.  
  44. <p>この本を誰に読んで欲しいのか、今ちょっと考えましたけれど、若い人たち(できたら中学生や高校生)です。そういう人たちに読んでもらえたらうれしいです。理由は本書を徴して頂ければ、おのずと知れるのですけれど、僕たちがそれと知らぬままに深く「伝統文化」に半身を浸して生きているかことに気づくのは早ければ早いほどいいと思うからです。<br />
  45. 若い人たちは、どちらかと言うと、「自国の伝統と何の関係もないまったく新しいもの」に惹きつけられます。僕自身、中学生の頃、いちばん夢中になって読んだのはアメリカのSFでした。それは明らかにそれが日本の文化的伝統とほとんど無縁のものに思えたからです。「100%ブランニュー」というところに魅せられたのです。正直言うと、大人たちが見向きもしない新しいものであれば何でもよかったんです。<br />
  46. 二十代の半ばくらいまでは「新しいものはよい。古いものはダメだ」という単純な進歩史観の信奉者でした。当たり前ですね。子どもが大人に勝てるとしたら「新しいものに対する感度の高さ」しかないんですから。<br />
  47. でも、文化的な作物について、「これがわかんねえやつは時代遅れ」というような定型的な決めつけをして勝った負けたで一喜一憂するのは、ほんとうは意味がないことなんです。だって、この世に「ほんとうに新しいもの」なんてほとんどないからです。多くは「ありものの使い回し」です。ほんとうにそうなんです。<br />
  48. でも、勘違いしないで欲しいのですけれど、僕はそれが「悪い」と言っているんじゃないんです。むしろ「すごいこと」だと思っています。何度も何度も使い回しされ、焼き直しされるものというのは歴史の風雪に耐えて生き延び、あらゆる場所の、あらゆる世代の人々の創造的な気分を活性化しているんですから。たぶんそれは人間がそれなしでは創造することができない何かなんだと思います。<br />
  49. というわけで、ある時点から僕は「新しいもの」を追いかけるのを止めて、長い期間にわたり(ものによっては何百年にわたって)文化的創造を通じて執拗に繰り返され、反復されるものを検出することの方に興味を持つようになりました。武道や能楽や古典文学に関心が移ったのはそのせいです。<br />
  50. それは単なる知的関心という以上に、自分自身がどれほど豊かな文化的伝統に養われているのか、それに気づくと、急に生きやすくなったからです。<br />
  51. 『未知との遭遇』というスティーブン・スピルバーグの映画がありましたけれど、そのキャッチコピーはWe are not aloneでした(ずいぶん古い話ですから、若い人はご存じないと思いますが)。<br />
  52. このwe are not alone ということを感じることが時々あります。古流の型を稽古しているうちに古人がその型に託した術理に気づいたときとか、能楽の謡を稽古しているときに思いがけなく身体の深層の筋肉が震動し始めたときです。「ああ、昔の人も『これと同じこと』を感じたんだな」ということが実感されると、「私はひとりじゃない」と思うのです。何というか暖かくて、フレンドリーなものに触れた感じです。そして、当然ながら、時代が隔たっていればいるほど、「あ、昔の人も、これと同じことを感じたのかな・・・」と直感したときの喜びは深い。</p>
  53.  
  54. <p>長くなってきたので、そろそろ話をまとめます。<br />
  55. これから先、若者たちの中から「出家」したり、「諸国一見」の旅に出たり、伝統的な芸能や技術の習得のために師匠に「弟子入り」したり・・・という生き方を選ぶ人が増えてくるんじゃないかという気がします。気がするだけで、何の根拠もないんですけれど。<br />
  56. でも、僕たちが豊かで多様な伝統的な文化的資源に養われて日々暮らしているということが感知されたとき、どうすれば昔の人たちの思いや感情と交流できるのか考え始めたとき、そういう生き方はごく自然に選ばれるのではないかと思います。<br />
  57. 安田さんと僕は二人ながら「昔の人の心身のうちに想像的に入り込む」ということの専門家です。そんなことを専門にしてどんな「いいこと」があるんだろうと疑問を抱く人がきっといると思いますが、その疑問はお読みになるうちに氷解すると思います。とりあえず二人とも最初から最後まで上機嫌ですから、「そういうこと」ができると機嫌よく暮らせるということは確かです。<br />
  58. ではどうぞゆっくりお読みください。<br />
  59. </p>]]>
  60.      
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  64.   <title>吉本隆明1967</title>
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  68.   <published>2017-11-10T00:06:59Z</published>
  69.   <updated>2017-11-10T00:11:35Z</updated>
  70.  
  71.   <summary>鹿島茂先生の『吉本隆明1968』(平凡社ライブラリー)の解説を書いた。 みなさん...</summary>
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  79.      <![CDATA[<p>鹿島茂先生の『吉本隆明1968』(平凡社ライブラリー)の解説を書いた。<br />
  80. みなさんにぜひ読んで欲しい本であるので販促のために解説だけ公開。</p>
  81.  
  82. <p>たいへん面白く読んだ。吉本隆明の解説書としては、これまで書かれたものの中で最高のものの一つだと思う。これから吉本隆明を読む人にとっては絶好のブックガイドであるし、これまで吉本を久しく読み込んできた人にとっても「なるほど、あれは『こういうこと』だったのか」と腑に落ちる解釈がいくつもあると思う。本書が今後ひさしく吉本隆明研究の必須のレフェランスとなるだろうと私は確信している。<br />
  83. というくらいで「帯文」としては十分なのだが、頼まれたのは「解説」なので、話は少し長くなる。鹿島先生がどうしてただ「吉本隆明研究」とか「吉本隆明論考」ではなく「吉本隆明1968年」という年号入りのタイトルを撰したのか、その理由について以下にひとこと私見を述べて解説に代えたいと思う(今、「鹿島先生」という表記が気になった方がいると思うけれど、これはご本人にお会いするとそう呼んでいるので仕方がない。いきなり「鹿島は」とは書けません)。</p>
  84.  
  85. <p>1968年は鹿島先生が大学に入ってはじめて吉本隆明と対峙した年である。私の場合はそれが一年前の1967年なので、上のような題になった。私もまた吉本隆明と少年の時に出会って、人生が変わった人間のひとりである。<br />
  86. 私は高校生から大学院生の頃までは吉本隆明の熱心な読者だった。でも、ある時期から読まなくなり、95年の阪神の大震災の時に高校時代からの蔵書をまとめて処分した時に、埴谷雄高や谷川雁や平岡正明の本といっしょに吉本の本も捨ててしまった。けれども、その後またふと読みたくなって、結局吉本隆明についてだけは捨てた本を全部また買い集めた。それは父が2001年に亡くなり、その後父のことを回顧するにつれ「戦中派の人たちは、戦前の自分と戦後の自分を縫合するためにずいぶん苦労をしたんだろうな」ということがひしひしと感じられるようになったからである。そして齢耳順を超えて読み返しながら、私もまた鹿島先生と同じように「ああ、おれはこの歳になっても、吉本主義者であったか」と深く感じ入ったのである。</p>
  87.  
  88. <p>鹿島先生と私は一歳違いで、鹿島先生の方が一歳年長である。鹿島先生は現役で東大に入学したが、私は69年に入試中止のあおりをくらって一浪し、70年に入学したので、学年は二つ下になる。鹿島先生は入れ違いに本郷に進学されたはずなので、キャンパスで遭遇したことはなかったと思う。でも、ほぼ同時期に同じキャンパスの同じ空気を吸ったことは間違いない。だから、この本に鹿島先生が書かれている回想については、細部まではっきりとしたリアリティをもって私も思い出すことができる。<br />
  89. 吉本隆明は鹿島先生や私の世代に圧倒的な影響力を有していた。もちろん、それは二十歳前後の少年たちが吉本の思想的営為の独創性が理解できたことを意味しない。「『吉本はすごい』と感じてはいましたが、どこがどうすごいのか、それを説明することは不可能だったのです。いいかえてみると、自分の所有している語彙と観念と関係性に、吉本特有のそれらを翻訳・転換してみせるということができなかったのです」(278頁)と鹿島先生も書かれているけれど、私の場合もまったく同じである。<br />
  90. それでも、私は一読して、「この人が何を言おうとしているのかを理解しないと日本の政治的状況の本質に触れることはできない」ということまではわかった。鹿島先生もそうだったと思う。他の政治学者や政治思想家たちの書き物については、私はそれに類する感懐を持ったことはなかった。難解な術語や聞いたことのない固有名詞をまぶした評論を読んで、どうしてもう少しわかりやすく書けないのか(それほど頭が良いなら、その頭の良さをどうしてわかりやすく書くことには使えないのか)とうんざりすることはあっても、この人が書いていることを理解できないと先がないという焦燥感を覚えたことはない。そんなことを思わせた書き手は、私にとっては日本人では吉本隆明ひとりである。<br />
  91. 私が最初に手にした吉本隆明の本は『自立の思想的拠点』で、1967年、高校二年生のときだった。なぜその本を買ったのか、記憶は定かではないが、周りの誰かが推薦したわけではなかったと思う。私が通っていたのは都立日比谷高校という進学校で、そこには鹿島先生が書いているような「自分が日本人だという要素をいっさい考えに入れずにヴァレリーやサルトルなどの抽象的思考と戯れることができるような人」(352頁)がいくたりもいて、彼らが校内で閉鎖的な知的サークルをかたちづくっていた。彼らが時おり「ヨシモト」という人名を口にすることがあったが、その時に一瞬微妙に苦い表情を浮かべることを私は見逃さなかった。どうやらヨシモトという人はこの「知的上層階級」の諸君にもうまく呑み込めないらしいということはわかった。彼らを「出し抜く」ためには、この人の本を読むのが捷径ではないかと私は考えた。子どもながら直感の筋は悪くない。だから、ある日書店でその名前を見た時に、深く考えずに購入したのである。<br />
  92. もちろん、理解できなかった。そこで論じられている政治潮流のことも、固有名詞として言及されている人の名前も私は知らなかった。でも、この人は私が緊急に理解しなければならないことを書いているということはありありと実感された(同じようなことはそれから十五年後にエマニュエル・レヴィナスを読んだ時にも感じた)。<br />
  93. 書いてあることが理解できなくても、そこに私宛てのメッセージが含まれており、それは私が(政治的に、あるいは市民的に)成熟しなければ読解できないものだということはわかる、ということがある。メッセージのコンテンツとアドレスは別次元に属する。そして私たちにとってより緊急なのはもちろん宛先なのである。<br />
  94. はじめは先輩たちを「出し抜く」ために読み始めた吉本隆明だったけれど、すぐにそのような相対的な知的優位性に立つことはどうでもよくなった。吉本の言葉は鋭利な刃物に似ていた。そして、それを突き立てる先は「論敵」たちであるより先にまず自分自身だったからである。<br />
  95. 高校二年の少年がそのような鋭利な刃物を手にしてよかったのだろうか。今から考えてみると、よかったのか、よくなかったのか、よくわからない。<br />
  96. 高校に入った時点では、私は大学を出て、法曹か新聞記者か文学研究者になるという「大衆からの離脱コース」のキャリアパスを望見していた。しかし、高校での受験秀才としての穏やかな生活は長くは続かなかった。一つには先に述べた「知的サークル」に潜り込んだせいで、そこでの知恵比べや「おどかしっこ」(「お前、あれ読んだ?」)に必死でキャッチアップする必要があったからである。だが、それ以上の手間暇を要したのは不良化活動(麻雀、飲酒、喫煙、ジャズ喫茶通い)であった。別にそんなところに貴重なリソースを投じる理由はなかったのだが、私は中学生までは「箱入りの優等生」だったので、その手の誘惑にまったく免疫がなかったのである。<br />
  97. 濫読と不良化活動への邁進のせいで、私の学業成績はたちまち悲惨なことになり、「箱入り優等生」の私しか知らない家族や友人やガールフレンドたち周囲の「良きひとびと」を嘆かせた。彼らに背を向けて遠ざかってゆく私の姿に、彼らはあるいは「名状し難い寂しさや切なさ」を感じたかも知れない。でも、私自身はそれまで無縁であった「ウッドビー知識人」と「都会の不良少年」という別種の「良きひとびと」との出会いに興奮していた。<br />
  98. そこに吉本隆明が来た。衝撃だった。免疫のない子どもにこんな過激な思想を注入したらどういうことになるか。私は「子どもが吉本隆明を読むとどうなるか」という危険な実験の一症例だったのではないかと思う。<br />
  99. 私は吉本を読んで、すぐに「高校をやめよう」と思った。それは歩き始めたばかりの「大衆から知識人への上昇過程」をいきなり逆走するというとんちんかんなアイディアであったが、こういう無謀なことは高校生しか思いつかない。もし私が中学生の時に吉本を読んだとしても、「中学をやめて働こう」とは思わなかっただろう(思ってもそれを実行するだけの社会的実力がない)。大学生になって読んだ場合には、大衆は「原像」として概念的に把持される他ないほどすでに遠い存在になっていただろう。だが、高校生は生活者大衆でもないし、知識人でもない。まだ何者でもない。それでも、親に内緒で退学届けを出したり、家を出て働くことくらいはできる。この特権的なポジションを利用して、大衆でも知識人でもない、その二つを架橋できる存在になろうと私は思った(ほんとうにそう思ったのである)。<br />
  100. でも、もちろんそんな野心的企てが成功するはずもなく、私は中卒労働者としてしばらく極貧生活を送った後、反社会的な生活態度に怒った大家さんにアパートを追い出されて、家出してわずか半年で親に叩頭して家に戻る許しを請うことになったのである。<br />
  101. 中卒労働者はつらかった(何より空腹がつらかった)。だから、温かい部屋で、母親の作った夜食を食べながらの受験勉強など、それに比べたら極楽であるとしみじみ思った。なるほど、知識人への上昇というのは別に大衆からの離脱というような観念的な営みである以上に、「楽な暮らしをしたい」という自然過程なのだと私は17歳にして深く得心がいった。<br />
  102. だから、大検を通って大学に入った時、私はずいぶん態度の悪い学生だったと思う。左翼の学生たちの政治談議はまったく空疎なものに思えたし、受験勉強の反動でただ遊んでいる学生は幼児に見えた。「大学解体」を呼号し、学校教育は無意味だと冷笑的に言う学生たちには「なんで高校の時にはそれに気づかずに受験勉強してたんだよ」と憎まれ口をきいた。厭味な学生だったと思う。大衆と知識人を架橋する存在になるという17歳の野望は潰えたけれど、知識人トラックに自分の走路だけは確保しつつ、効率的に受験勉強をクリアーして進学してきた同輩たちに向かっては中卒労働者の空腹を経験したことがあるかとすごむという「鵺(ぬえ)」的な狡猾さだけは身に着けていた。吉本隆明を「悪用する」方法というのが他にもあるのかどうか知らないが、私は間違いなくその好個の適例だった。<br />
  103. けれども、一言言い訳をするが、本書でも重く扱われている「転向」の問題は私たちの世代にとっても決して他人事ではなかったのである。それは「ブル転」とか、もっと穏やかに「運動からの召還」と呼ばれていたけれど、平たく言えば、政治革命をめざす活動から撤退して、就活にとりかかることである。多くの活動家学生たちが四年生になるとヘルメットを脱いで、汚れたジーンズを脱いでこぎれいなスーツに着替え、長い髪を切って七三に分けて就活を始めた。私はこれには驚いた。私はたしかに厭味な「鵺」的学生ではあったけれど、「鵺」であることに殉じる覚悟はあった。まさか「日帝打倒」とシュプレヒコールしていた学生たちがその当の日帝企業の就職の面談に行って、「御社の将来性に期待して」というような空語を吐くようなことが実際にあるとは思ってもいなかった。<br />
  104. なるほど、彼らにとって知識人でありかつ大衆であるというのは「こういうこと」なのかと腑に落ちた。まったく吉本が言った通りではないか。彼らは一方では空疎で観念的な世界革命論を語り、その一方では「己のためなら他人のことなど構ってられるかという明治資本主義が育てた『本音』としての個人主義的リアリズム」(320頁)にも忠実であったのである。<br />
  105. 「この種の上昇的インテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で目の前につきつけられたとき、何が起こるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである」という『転向論』の中の吉本隆明の言葉がこのときほど身にしみたことはなかった。<br />
  106. 私はそのとき、ただ一人になっても「日本的情況」を見くびることだけはすまいと心に誓った。天皇制を、家族制度を、あるいは日本的政治思想を、宗教や伝統技芸を、それがどれほど「理に合わぬ」ものと見えても、私はそれを思考と、かなうなら実践の対象としようと決めた。空疎な政治革命論は語らない。けれども「己のためなら他人のことなど構ってられるか」というようなベタな個人主義リアリズムとも結託しない。その中ほどのところが、「鵺」的吉本主義者として私が選んだ立ち位置であった。<br />
  107. 以後半世紀に近い歳月を閲した。私は後にフランスの哲学と文学を研究する学者になったが、その一方で父子家庭で子どもを育て、武道と能楽を稽古し、禊行を修し、祭祀儀礼を守り、今は自分の道場で地域の人々に合気道を教えて余生を過ごしている。他の点ではずいぶんわきの甘い男だったが、知識人と生活者大衆の中ほどのどっちつかずの立ち位置を守り、何があっても「日本的情況を見くびらない」という点については一度も警戒心を失ったことはない。その自負だけはある。それほどまでに『転向論』の吉本の言葉は私の胸に突き刺さったのである。</p>
  108.  
  109. <p>以上が私にとっての吉本隆明との出会いとその後のいきさつである。17歳で吉本隆明に出会って「よかったのか、よくなかったのか、よくわからない」というのは如上のような事情によるのである。<br />
  110. 鹿島先生もおそらくは吉本隆明との出会いがきっかけになって知的成熟の道を歩み始めたはずである(そうでなければ、こんな本は書かなかっただろう)。鹿島先生が進まれた道と私が進んだ道が結果的にはずいぶん方向違いのものだったにせよ、私たちはどちらも(主観的には)同じ「母鳥」の後を追って歩いてきたのだと思う。<br />
  111. </p>]]>
  112.      
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  116.   <title>大学教育は生き延びられるのか?</title>
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  118.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1838</id>
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  120.   <published>2017-11-03T00:22:12Z</published>
  121.   <updated>2017-11-10T02:07:42Z</updated>
  122.  
  123.   <summary>ご紹介いただきました、内田でございます。本日は、国立大学の教養教育の担当の人たち...</summary>
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  129.  
  130.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  131.      <![CDATA[<p>ご紹介いただきました、内田でございます。本日は、国立大学の教養教育の担当の人たちがお集まりになっていると伺いました。ずいぶんご苦労されてると思います。日々本当に胃が痛むような、苛立つような思いをしていらっしゃると思います。今回のご依頼をいただいたとき、かなり絶望的な話をしようと思ったんですけども、先ほどみんなを励ますようなことをお話しくださいと頼まれましたので、なんとか終わりの頃には少し希望が持てるような話にできればと思っています。</p>
  132.  
  133. <p>「大学教育は生き延びられるのか?」という問いの答えは「ノー」です。それは皆さん実感してると思います。大学教育は生き延びられるのか。生き延びられないです。今のまま状況では。<br />
  134. でも、仕方がないと言えば仕方がないのです。急激な人口減少局面にあり、経済成長の望みはまったくない。かつては学術的発信力でも、教育水準でも、日本の大学は東アジアの頂点にいましたけれ。でも今はもう中国やシンガポール、韓国にも台湾にも抜かれようとしている。急激に大学のレベルが下がっているのです。そして、急激に大学のレベルが国際的に低下していることについて、当の大学人たちにも教育行政の当局にもその自覚がない。これが危機の本質だと思います。<br />
  135. 私は今もいくつかの大学で客員教授や理事をして、大学の現場とのかかわりを維持していますけれど、フルタイムの大学教員ではありません。ですから、好きなことを言わせてもらいいます。<br />
  136. 正直に言って、日本の大学は、このままではもう先はないです。教育制度は惰性が強いですから、簡単には潰れはしません。民間企業のようにいきなり倒産するということはない。でも、じりじりと駄目になってゆく。長期停滞傾向が続いて、20年、30年経ったあたりで、もう本当に使い物にならなる。それでもまだ組織としてはもつでしょう。医療とか教育というのは「それがなくては共同体が存続しえない」本質的な制度ですから、最終的には現場にいる人たちが身体を張って守ります。ですから、どんなにシステムがおかしくなっても、公的な支援が途絶えても、それでもなんとか持続はします。でも、それはほんとうに現場の人が命を削ってもたせているからもっているのであって、公的制度としてはもう破綻している。ブラック企業と同じでです。フロントラインに立ってる生身の人間が必死になって現場を回しているわけで、その人たちがばたばた過労死しているおかげでかろうじてシステムの体をなしている。大学もそういう状況にいずれなりますし、局所的にはもうそうなっている。<br />
  137. 医療の世界でかつて「立ち去り型サボタージュ」という言葉が使われました。小松秀樹さんの書かれた『医療崩壊』という本がその事実を明らかにしました。小松先生とは一度お会いしたことがありますけれど、その時に教えられたのは、「医療崩壊」というけれど、医療もやはり惰性の強いシステムなので、簡単には崩壊しないということでした。それは現場に立って医療の最前線を守っているドクターやナースは自分の健康や家庭生活を犠牲にしても医療を守ろうとするからです。そういう「業」を抱えた人が医療の現場に立っている。だから、制度的に破綻していても、簡単には崩壊しないんだ、と。でも、生身の人間ですから、彼らのオーバーアチーブメントに頼って支援の手当をせずに放置しておけば、いずれ一人倒れ二人倒れ、前線の維持が難しくなる。そういうお話でした。<br />
  138. 10年ぐらい前に医療で起きたのと同じことが今、大学で起こっているような気がします。教育現場で働いてる人間を支援するという体制が国にも自治体にもメディアにも市民社会にもない。逆に、公的な制度やメディアが現場の教職員たちを追いつめている。精神的にも身体的にも「まだ働き方が足りない」と負荷をかけている。<br />
  139. それでもなんとか現場がもっているのは、教育に関わる人間もまた医療人と同じようにある種の「業」を抱えているからです。教員という職業を選ぶ人には一定の傾向性があります。医療を職業に選ぶ人たちと同じように、教員は学校という場が好きなんです。教室で若い人たちの前に立って何かを教えることが好きで、研究が好きで、アカデミアで異なる領域の知性と出会うことが好きで、という人が学校教育の場には引き寄せられてくる。だから、常軌を逸した負荷がかかっていても、なんとか踏みとどまろうとする。家庭生活や健康を犠牲にしても、自分の職域を守り抜こうとする。今の日本の大学がこれほど否定的環境にありながら、なんとか保っているのは、教育人たちのこの「業の深さ」のおかげです。<br />
  140. でも、生身の人間が蔵している生命資源は本来であれば他のことに使わなければいけないものです。一家団欒とか、文化活動とか。運動したり、遊んだり、自分の好きな研究をしたり、そういう本当にしたいことを断念して、その資源を学校の管理業務とか文科省の命じてくる意味のない作業に割かなければならない。<br />
  141. 僕は選択定年制で大学を5年早く辞めたのですが、最大の理由は会議と書類書きが受忍限度を超えたからです。研究することも教育することも大好きなんですけれど、会議と書類書きが大嫌いでした。50代の途中からは6年間管理職でした。授業のない日に会議のためだけに登校するということが何度もありました。だから、あと5年いても、退職まで管理職が続くことがほぼ確実だったので、申し訳ないけれど60歳で退職しました。そういう意味では僕も「立ち去り型サボタージュ」の一人なんです。でも、これ以上いると、自分自身が干上がってしまうと思った。60歳になって、残りの人生のカウントダウンが始まったのに、まだやり残した仕事がたくさんある。研究の領域でもありましたし、武道家としてもやらなければならないことがたくさんありました。大学を守るためには現場に残って、仲間たちと激務を分担しなければいけないということは理屈ではわかっていたのですが、会議と書類書きで自分の時間をこれ以上費やすことに耐えられなかった。その点では忸怩たる思いがあります。そうやって現場を棄てた人間の慚愧の思いを込めて、今日本の大学教育が一体どういうところにあるか、お話をしたいと思います。</p>
  142.  
  143. <p>まず具体的な実態から、お話します。2002年から日本の学術研究は質、量ともに国際競争力が低下しています。2015年の「人口あたり論文数」は世界37位。中国、台湾、韓国のはるか後塵を拝しています。現在の日本の学術的発信力はOECD諸国の中では最下位レベルです。<br />
  144. 論文数の減少が著しいのが、かつて国際競争力が高かった分野だというのも気になります。工学系は2004年以降論文数が減少。生命科学系、農学系、理学系も低下傾向です。社会科学系では論文数はそれほど減っていませんが、もともと国際競争力のない分野です。総体として、日本の大学の国際競争力は過去15年間下がり続けています。<br />
  145. でも、この「人口当たり論文数」が先進国最低という事実をメディアは報道したがりません。代わりによく報道するのが「教育に対する公的支出の比率」です。公的支出の中に占める教育費の割合は先進国最低。それも5年連続です。この事実についての反省の弁を政府部内から聞いた記憶が僕にはありません。この国の政府は教育研究の支援には関心がないということです。ですから、今のシステムが続く限り、教育に対する公的支出比率先進国最下位という定位置に日本はとどまり続けることになります。<br />
  146. なぜ、日本の大学の学術的発信力がこれほど急激に衰えたのか。僕は35年間大学の教壇に立ってきましたので、この経年変化を砂かぶりで観察してきました。はっきりした変化が始まったのは1991年の大学設置基準の大綱化からです。<br />
  147. 誤解して欲しくないのですが、設置基準の大綱化そのものが研究教育能力の劣化をもたらしたわけではありません。大綱化を導入せざるを得なくなった歴史的な教育環境の変化があり、それが日本の大学の学術的な生産力を損なったのです。<br />
  148. でも、これについて教育行政当局は何も分析していない。先進国の中で日本の大学教育のアウトカムが最低レベルにまで下がったという事実については「全部大学の責任」であり、教育行政には何の瑕疵もないという態度を貫いている。悪いのは文科省ではなくて大学であるわけですから、失敗の原因を探求するのも、対応策を講じるのも全部大学の自己責任であるという話になっている。ですから、文科省の仕事はそういう「できの悪い大学に罰を与える」ことに限定されている。そうやって毎年助成金を削り、学長に権限を集中させて教授会自治を否定し、大学の自由裁量権を奪い、自己評価自己点検作業を強要し、次から次への大学への課題を課して、研究教育のための時間を奪っておいて、その上で「どうして研究教育がうまくゆかないのか」について会議を開き、山のような報告書を書くことを義務づけている。<br />
  149. 文科省は大学に自己評価を求めていますが、僕はまず文科省自身が自己評価する必要があると思います。過去25年間の教育行政を点検して、現状はどうか、なぜこんなことになったのか、どうすれば改善できるのか。大学に要求するより先に、文科省自身がPDCAサイクル回してみればいい。どんな点数がつくかみものです。<br />
  150. 先ほど申し上げましたが、転換点は91年の大学設置基準の大綱化でした。それまでの日本の大学はよく言われる通り「護送船団方式」でした。いわゆる「親方日の丸」です。箸の上げ下ろしまでうるさく文部省が指図する代わりに、面倒は全部見る。そういう家父長制的な制度だった。<br />
  151. でも、大綱化によって、細かいことに関しては、大学の自由に任せようということになった。家父長的な制度がなくなって、大学が自由にカリキュラムを作ることができるようになったことそれ自体はたいへんよいことだったと僕は思います。当時も僕はこの方向性を歓迎しておりました。「自己決定・自己責任」でいいじゃないかと僕も思いました。でも、文科省が大学に自由を与え、権限委譲することに裏がないはずがない。実際にそれが意味したのは大学の淘汰を市場に委ねるということでした。<br />
  152. 91年段階で、今後18歳人口が急激に減ってゆくことが予測されていました。60年代には250万人いた18歳人口は以後漸減して76年に156万まで減りましたが、その後V字回復して1992年に205万人に戻しました。そして、そこから減り続けた。2017年では120万人。25年間で40%減少したことになります。<br />
  153. 大綱化は18歳人口がピークアウトして、以後急減局面に入り、増え過ぎた大学定員を満たすことが困難な局面に入るということがはっきりわかった時点で導入されました。これから大学の数を減らさなければいけないということは文科省(当時は文部省)にもわかっていました。もう護送船団方式は維持できない。文部省と大学はそれまで親鳥とひな鳥のような関係でした。親鳥はひな鳥を扶養する代わりにあらゆることについて口出しした。でも、親鳥が増え過ぎたひな鳥を扶養できない時代がもうすぐ来ることがわかった。護送船団のロジックからしたら、ひな鳥が死んだらそれは親鳥の責任になる。こんな弱い鳥を産んだお前が悪いということになる。でも、これから後、ひな鳥はばたばた死ぬ。だから、親鳥の仕事を放棄して、「これからは自己裁量で生き抜きなさい」と言い出した。なぜ淘汰圧に耐えられないような高等教育機関を認可したのか。なぜそこに税金を投入したのか。そういう問いに対して文部省には備えがなかったからです。<br />
  154. でも、それはある意味では当然のことでした。明治の近代学制の導入以来、日本の教育行政の最大の使命は教育機会の増大だったからです。国民にいか多くの良質な就学機会を提供するか、それが近代日本の教育行政の本務だった。だから、学校を増やすことを正当化するロジックでしたら教育官僚は無限に作り出すことができた。そして、実際にそのロジックを駆使して、国民の就学機会を増やし続けたのです。それは敗戦後も変わりませんでした。敗戦国日本は軍事力や外交力ではなく、むしろ経済力や教育力や学術的発信力によって国際社会に認知される道を進むべきだということについては国民的な合意が形成されていました。<br />
  155. だから、ある意味で文部省の仕事は簡単だったのです。でも、80年代になって難問に遭遇しました。18歳人口が減ることがわかってきたからです。しばらくは大学進学率の上昇が期待できるので、大学定員は満たせるだろうけれど、それもどこかで天井を打つ。そのあとは大学を減らさなければならない。でも、文科省にはどうやって教育機会を増やすかについての理屈はあるけれど、どうやって教育機会を減らすかのロジックがなかった。護送船団方式でそれまでやってきたわけですから、自分が認可し、自分が指図して育てて来た大学に対して「お前は失敗作だったから廃校しろ」というわけにはゆかない。製造者責任を問われるのは文部省自身だからです。<br />
  156. そこで大学の淘汰は市場に委ねるというアイディアに飛びついたのです。強者が生き残り、弱者は淘汰されるというのは市場では自明のことです。自分の生んで育てたひな鳥を殺す仕事を親鳥は放棄して、市場に丸投げしたのです。これが91年の大学設置基準大綱化の歴史的な意味です。これは明治維新以降の教育行政の決定的な転換点でした。でも、その時点では僕も僕のまわりの大学人も、この変化の歴史的意味に気づいていなかった。18歳人口が減ってゆく以上、大学が生き残りをかけてそれぞれに創意工夫を凝らすことは「当たり前」のことであり、その淘汰プロセスで大学教育研究の質は向上するに違いないと、僕も信じておりました。<br />
  157. けれども、この期待はまったく外れてしまった。市場に委ねるということは、それぞれの大学に好き勝手なことをしてくれということではなかったのです。というのは、求められたのは、どの大学が「要らない大学」であるか可視化することだったからです。そのためにはシンプルでわかりやすい指標に基づいて大学を格付けしなければならない。市場はそれを要求してきたのです。<br />
  158. この場合の「市場」というのは、どの大学のどの学部を受験するか選ぶ志願者たちとその保護者のことであり、また彼らが就職する先の企業のことです。志願者と保護者が求めたのは「そこを卒業すると、どれくらいの年収や地位が期待できるか」についての情報であり、採用先が求めたのは「そこを卒業した労働者にはどれくらいの能力と忠誠心を期待できるか」についての情報でした。<br />
  159. 大綱化というのは自由化のことだと僕は勘違いしていました。でも、そうではなかったんです。それは「どの大学から順番に淘汰されてゆくかを可視化して、市場に開示せよ」ということだったのです。<br />
  160. 僕は大学のカリキュラムの自由化によって、それぞれ日本中の大学が、それぞれの教育理念と教育方法を持ち、それぞれの教育プログラムを編成して、それぞれ異なる達成目標をめざすということになると思い込んでいた。でも、大綱化から後、大学に求められたのは均質化・同質化でした。「自由に競争してよい」というものの、その競争の結果出てくる優劣の差はわかりやすい仕方で表示されなければならない。競争することは自由になったけれど、教育や研究のあり方が自由になったわけではない。むしろそれはより不自由なものになった。というのは、格付けのためには全ての大学の活動を同じ「ものさし」で考量する必要があったからです。格付けというのはそういうことです。複数の教育機関の優劣を判定するためには、同じ「ものさし」をあてがってその差を数値的に表示しなければならない。入学者の偏差値であるとか、就職率であるとか、卒業時点でのTOEICスコアであるとか、そういう共通性の高い「ものさし」を当ててみせないと大学間の優劣は可視化できない。そして、そのためにはものさしが当てやすいように教育内容を揃えることが全大学に求められることになった。<br />
  161. まことに逆説的なことですけれど、「好きにやってよい。その結果について格付けをする」と言われたのだけれど、よく考えてみたら「同じようなことをしないと格付けができない」以上、日本中の大学が自発的に相互模倣する他ないという倒錯的な事態が生じることになった。<br />
  162. 考えてみれば、それと同じことはすでに研究領域でも起きていたのでした。若い研究者たちは専任のポストを求めて競争することを強いられています。でも、研究領域がばらばらで、テーマがばらばらで、研究方法もばらばらだと、研究成果の優劣は確定しがたい。それよりは、研究者たちができるだけ同じ研究領域に集中して、同じ研究方法で、同じ研究課題に取り組んでいてもらう方がひとりひとりの出来不出来を比較しやすい。当然です。その結果、若い研究者たちを競争的環境に投じたら、研究者ができるだけたくさんいる領域を選んで専攻するようになった。誰も手がけない、前人未到の領域こそが本来なら研究者の知的関心を掻き立てるはずですけれど、そういう領域に踏み込むと「研究成果が査定不能」というリスクを負うことになる。「格付け不能」というのは市場からすると「無価値」と同義です。だから、リスクを避ける秀才たちは「誰も手がけない領域」ではなく「競争相手で混み合っている領域」に頭から突っ込んでゆくようになった。そうやって日本の学術研究の多様性は短期間に急激に失われていったのでした。<br />
  163. 部分的に見ると適切なように見えるものも、少し広めのタイムスパンの中に置き換えると不適切であり有害であるということがあります。大学の格付けというのは、まさにそのようなものでした。大学の優劣を可視化するという社会的要請はそれだけ見れば合理的なものに思えますけれど、その帰結が大学の均質化と研究成果の劣化だったとすれば全体的には不適切なものだったという他ない。</p>
  164.  
  165. <p>自己評価というのも今ではどこの大学も当たり前のようにやっていますけれど、そもそも何のために自己評価活動が要るのかというおおもとのところに還って考えるということをしていないので、膨大な無駄が生じている。はっきり言って、こんなものは日本の大学には不要なものです。でも、アメリカでは大学の評価活動を熱心に行っているから日本でもやろうということになった。それは社会の中における大学のありようが日米では全然違うということがわかっていないから起きた重大な誤解です。<br />
  166. アメリカの大学の中にはとても大学とは言い難いようなものがたくさんあります。大学設置基準が日本とは違うからです。アメリカの場合、ビルの一室、私書箱一つでも大学が開校できる。校地面積であるとか、教員数であるとか、蔵書数であるとか、そういうことについてうるさい縛りがない。教育活動としての実態がないのだけれど、「大学」を名乗っている機関がある。そういう大学のことをDegree millとか、Diploma millと呼びます。「学位工場」です。学士号や修士号や博士号を単なる商品として売るのです。<br />
  167. 学位工場はアメリカの商習慣から言うと違法ではありません。というのは、一方には金を出せば学位を売るという大学があり、他方には金を出して学位を買いたいという消費者がいて、需給の要請が一致してるからです。売り買いされているものが無価値な、ジャンクな商品だということは売る側も買う側も知っている。無価値なものを売り買いしており、その価格が適正だと双方が思っているなら、法的な規制はかけられない。そうやってアメリカ国内には無数の学位工場が存在している。<br />
  168. そこでアメリカの「まともな大学」が集まって、「まともな大学」と「学位工場」の差別化をはかった。でも、「学位工場」のブラックリストを作ることはできません。それは彼らの営業を妨害することになり、場合によっては巨額の賠償請求を求められるリスクがあるからです。合法的に経営されている企業の活動を妨害するわけにはゆかない。だから、「この学校はインチキですよ。この大学の出している修士号とか博士号とかはほんとうは無価値なんですよ」ということはアナウンスできない。できるのは「私たちはまともな大学であり、私たちの出す学位は信頼性があります」という自己主張だけです。でも、自分ひとりで「うちはまともです」と言っても十分な信頼性がない。だから、世間に名の通った「まともな大学」を集めて、「まともな大学同士でお互いの品質保証をし合う」という「ホワイトリスト」の仕組みを作った。それが相互評価です。<br />
  169. でも、日本にはそんな相互評価の必要性なんかありませんでした。だって、学位工場なんか存在しなかったからです。日本の大学は厳しい設置基準をクリアしてきて創立されたもので、教育しないで、学位を金で売るようなインチキな大学は存在する余地がなかった。<br />
  170. でも、確かにある時点からそれが必要になってきた。それは小泉内閣以後の「規制緩和」によって、大学の設置基準も緩和されたからです。厳しい設置基準審査は割愛する。その大学が存在するだけの価値があるかどうかの判定は市場に委ねる。「事前審査」から「事後評価」へというこの流れは「護送船団方式」から「市場へ丸投げ」という大綱化と同じ文脈で登場してきました。<br />
  171. 2003年に規制緩和路線の中で株式会社立大学が登場しました。「構造改革特区」においては学校法人ではなく、株式会社にも学校経営への参入が容認されたのです。それ以前は私立学校の設立母体となることができるのは学校法人だけでした。規制緩和によって、2004年から続々と株式会社立大学が設立されました。でも、株式会社立大学のその後はかなり悲惨なものでした。<br />
  172. 全国14キャンパスを展開したLECリーガルマインド大学は2009年度に学部が募集停止。2006年開学のLCA大学院大学も2009年に募集停止。TAC大学院大学、WAO大学院大学は申請に至らず。ビジネス・ブレークスルー大学は2012年度の大学基準協会の大学認証評価で「不適合」判定を受けました。実質的に専任教員が置かれていないこと、研究を支援・促進する仕組みが整備されていないこと、自己点検評価・第三者評価の結果を組織改善・向上に結びつける仕組みが機能していないことなどが指摘されましたが、これは経営破綻に至った他の株式会社立大学にも共通していたことでした。<br />
  173. でも、僕はこの失敗についても株式会社立大学を推進した人々からまともな反省の弁を聞いたことがありません。導入時点では、財界人たちからは、大学の教員というのはビジネスを知らない、マーケットの仕組みが分かってない、組織マネジメントができていない、だから駄目なんだということがうるさく言われました。生き馬の目を抜くマーケットで成功している本物のビジネスマンが大学を経営すれば大成功するに決まっているという触れ込みでしたが、蓋を開けてみたらほとんど全部失敗した。それについても、なぜ失敗したのかについて真剣な反省の弁を聞いたことがありません。誰の口からも。もし大学人に足りないのはビジネスマインドだというのが本当なら、この「ビジネスマン」たちもかなりビジネスマインドに致命的な欠陥を抱えていたということになります。でも、それよりむしろ学校教育に市場原理を持ち込むという発想そのものに誤りがあったのだと僕は思います。<br />
  174. これらの出来事はすべて同一の文脈の中で生起したことです。これらの出来事に伏流しているのは「市場は間違えない」という信憑です。学校教育の良否を判定するのは市場であると考えたビジネスマンたちは、消費者が喜びそうな教育商品・教育サービスを展開すれば、必ず学生たちは集まってくると考えました。株式会社立大学はいろいろな手で志願者を集めましたが、それは商品を売る場合と同じ考え方に基づくものでした。駅前で足の便がいいとか、スクーリングなくて一度も登校しなくても学位が取れるとか。でも、消費者を引き付けようとするなら、最終的に一番魅力的な訴えは「うちは勉強しなくても学位が取れます」ということになる。そうならざるを得ない。市場モデルでは、学習努力が貨幣、単位や学位が商品とみなされます。最も安価で商品を提供できるのがよい企業だという図式をそのまま学校教育に適用すれば、学習努力がゼロで学位が取れる学校が一番いい学校だということになる。実際に、そう信じて株式会社立大学の経営者たちは専任教員を雇わず、ビデオを流してコストカットに励み、学生たちには「最低の学習努力で卒業できます」と宣伝した。それは学位工場に限りなく近いかたちの大学を日本にも創り出そうとしたということです。でも、幸いにもその企ては成功しなかった。果たしてその失敗の経験から、株式会社立大学の導入を進めた人々は一体何を学んだのか。たぶん何も学んでいないと思います。今も「大学では実学を教えろ」とか「実務経験者を教授にしろ」と言い立てている人はいくらもいます。彼らの記憶の中では株式会社立大学のことはたぶん「なかったこと」になっているのでしょう。<br />
  175. その後に登場してきたのが「グローバル教育」です。これも表向きは経済のグローバル化に対応して云々ということになっていますけれど、実態は格付けのためです。大学の優劣をどうやって数値的に可視化するかということが90年代以降の文科省の教育行政の最優先の課題でしたけれど、グローバル教育はまさにそのためのものでした。つまり、「グローバル化度」という数値によって全大学を格付けすることにしたのです。これはたしかに賢い方法でした。「グローバル化度」は簡単に数値的に表示できるからです。受け入れ留学生数、派遣留学生数、海外提携校数、英語で行っている授業のコマ数、外国人教員数、TOEICのスコア・・・これは全部数値です。これらの数値のそれぞれにしかるべき指数を乗じると、その大学の「グローバル化度」がはじき出される。電卓一つあれば、大学の「グローバル化度」は計算できる。<br />
  176. でも、留学生の数とか、海外提携校の数とか、外国人教員数とか、英語での授業の数は大学の研究教育の質とは実際には何の関係もありません。今の日本の大学生は日本語での授業でさえ十分に理解しているとは言い難い。それを英語で行うことによって彼らの学力が向上するという見通しに僕はまったく同意できません。<br />
  177. 今、どこの大学でも「一年間留学を義務づける」ということが「グローバル化度」ポイントを上げるために導入されています。学生からは授業料を徴収しておいて、授業は海外の大学に丸投げして、先方が請求してくる授業料との「さや」を取る。何もしないで金が入ってくるのですから、大学としては笑いが止まらない。25%の学生が不在なのですから、光熱費もかからない、トイレットペーパーの消費量も減る、教職員もその分削減できる。いいことづくめです。そのうち「いっそ2年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出す知恵者が出てくるでしょう。さらにコストカットが進んで利益が出る。すると誰かさらに知恵のある者が「いっそ4年間海外留学必須にしたらどうか」と言い出すかもしれない。そうしたら校舎も要らないし、教職員も要らない。管理コストはゼロになる。でも、そのときは大学ももう存在しない。でも、自分たちがそういうふうに足元を掘り崩すようなリスクを冒しているということを、この「グローバル教育」推進者たちはたぶん気づいていないような気がします。<br />
  178. シラバスというのも、そのような学校教育への市場原理の侵入の一つの徴候です。もちろんそれまでも授業便覧・学修便覧は存在していたわけですけれど、シラバスはそれとは性格がまったく違います。あれは工業製品につける「仕様書」だからです。含有物質は何か、どういう規格に従って製造されたのか、どういう効用があるのか、そういう情報を消費者に開示するためのものです。ある意味では契約書です。「こういう授業をいついつにする」と教師は約束する。学生はそれが履行されることを教師に要求できる。予定通りに授業をしなかった場合、所期の学習効果が得られなかった場合、学生は教師に対して「契約不履行」でクレームをつけて、謝罪なり補講なりを請求できる。そういう趣旨のものです。<br />
  179. でも、大学の授業は工業製品じゃありません。本来は生身の教師が生身の学生たちの前に立ったときにその場で一回的に生成するものです。そこで教師が語る言葉にはそれまで生きてきて学んだこと、経験したこと、感じたことのすべてが断片的には含まれている。それが何の役に立つのか、そんなことは教師にだって予見不能です。どうしてこの科目を履修することになったのかは学生にだってわからない。学んだことの意味がわかるのは、場合によっては何年も、何十年もあとになることさえある。そういうものです。<br />
  180. スティーヴン・ジョブズは大学時代にたまたま「カリグラフィー(書法)」の授業を履修しました。どうしてそんな趣味的な授業を自分が毎週聴いているのか当時は理由がよくわからなかった。でも、何年か経ってスティーヴ・ウォズニアックと最初のマッキントッシュを設計したときに、フォントの選択と字間調整機能を標準装備として搭載したときに大学時代に「美しい文字を書く」授業を受けたこととの関連に気がついた。<br />
  181. 授業がどういう教育効果をひとりひとりの学生にもたらすことになるのか、それは教師にも学生自身にも予見できません。もちろんシラバスに適当なことを書くことはできます。でも、シラバスを目を皿のようにして読んで履修科目を選ぶ学生なんて、実際にはいません。このコマが空いているからとか、友だちが受講しているからとか、この先生面白そうだからとか、試験がなくてレポートだけだからとか、そういう理由で履修科目を選んでいる。<br />
  182. 私が在職中にとった統計でわかったことは「シラバス通りに授業をしているかどうか」ということと学生の授業満足度の間には統計的に有意な連関がないということでした。それ以外のすべての質問は学生の授業満足度と相関がありました。「時間通りに授業を始めるか?」とか「板書が見やすいか?」とか「十分な準備をして授業に臨んでいるか?」といった問いは満足度と相関していました。でも、全部の質問の中でただ一つだけ何の相関もない質問がありました。それが「シラバス通りに授業をしているか?」です。学生たちはシラバス通りに授業が行われることに特段の重要性を認めていない。それはアンケートの統計的処理の結果でも、僕の教壇での実感でもそうです。<br />
  183. だから、「シラバスを細かく書け」という文科省からの命令を僕は無視しました。だって意味がないんだから。いやしくもこちらは学者です。論理的にものを考えるのが商売です。シラバスを事細かに書くと授業効果が上がるということについて実証的根拠があるなら、それを示してくれればいいだけの話です。それを示さずに、もっと細かく書けとか英語で書けとか同僚の教員同士でチェックし合えとか、どんどん作業を増やしてきたのです。<br />
  184. 僕が教務部長のときにうちの大学のシラバスに「精粗がある」という理由で助成金の減額が告げられました。これは教育行政として自殺行為だと僕は思いました。シラバスを書かせたかったら「それには教育効果がある」という理由を示せばいい。何の教育効果があるのか命令している文科省が知らない作業を現場に頭ごなしに命令して、違反者に処罰を課す。それも「助成金の減額」という「金目の話」に落とし込んできた。僕はこれを「教育行政の自殺」だと言ったのです。仮にも大学教育ですよ。文科省は「大学の教員というのは『金を削る』と脅したら意味がない仕事でも平気でやる生き物だ」という人間観を公然と明らかにしているわけです。財務省あたりが言うならわかりもするが、教育行政を担当する省庁が「人間は金で動く」という人間観を本人も信じ、人にも信じさせようとしていることを少しは恥ずかしいと思わないのか。まことに情けない気持ちがしました。<br />
  185. シラバスは氷山の一角です。大学人全体がこういうやり方にいつの間にかなじんでしまった。意味がないとわかっていることでも、「文科省がやれと言ってきたから」というだけの理由でやる。意味のないことのために長い時間をかけて会議をして、分厚い書類を書いて、教職員たちが身を削っている。腹が立つのはそれが「大学における教育研究の質を高めるため」という大義名分を掲げて命じられていることです。教員の教育研究のための時間を削って、体力を奪っておいて、どうやって教育研究の質を上げようというのです。<br />
  186. 問題はこの理不尽に大学人が「なじんでいる」ということだと思います。仮にも学術を研究し、教育している人たちが「理不尽な命令」に対して、「逆らうと金がもらえないから」というような俗な理由で屈服するということはあってはならないんじゃないかと僕は思います。無意味なこと、不条理なことに対して耐性ができてしまって、反応しなくなったら、悪いけど学者として終わりでしょう。目の前で明らかに不合理なことが行われているのに、「いや、世の中そんなもんだよ」とスルーできるような人間に科学とか知性とかについてっ僕は語って欲しくない。<br />
  187. 今、日本中の大学でやっていますけれど、評価活動というのはナンセンスなんです。何度も申し上げますけれど、無意味なんです。これは自らの失敗を踏まえて申し上げているんです。神戸女学院大学に教員評価システム導入の旗振りをしたのは僕です。当時、評価に関するさまざまなセミナーや講演に出ました。製造業の人から品質管理についての話も聞きました。そういう仕組みを大学にも導入すべきだと、もっとビジネスライクに大学のシステムを管理しなければいけないと、その頃は信じていたのです。でも、はじめてすぐに失敗だということに気づきました。<br />
  188. 僕が考えたのは、大学内の全教員の研究教育学務での活動を数値化して公表し、それに基づいて教員の格付けを行い、予算配分や昇級昇格に反映させるというものでした。さすがに教授会では昇級昇格に反映させるという僕の案は否決されましたけれど、教員たちの評価を各学科・部署の予算配分に反映させるというところまでは同意をとりつけました。<br />
  189. 僕は教員の個人的な評価なんて簡単にできると思っていたのです。教育だったら、担当クラス数とか、ゼミで指導している学生数、論文指導している院生数などを数値化して、それを足せばいい。研究だったら年間にどれくらい論文を書いているか、レフェリー付きのジャーナルに書いているのか紀要に書いているのかで点をつける。学務は管理職なら何点、学部長なら何点、入試委員なら何点、というふうに拘束時間の長さや責任の重さで配点を変える。それを電卓一つで叩けば年間の教員の活動評価なんか出せると思っていたんです。でも、それが短慮でした。<br />
  190. 配点を決める委員会でいきなり引っ掛かったのが著作でした。単著一つで何点と決めるときに、同僚から待ったがかかった。「年間5冊も6冊も書き飛ばした本と、20年かかって書いた1冊では価値が違う。それが同じ配点というのはおかしい」と言われた。これはおっしゃる通りなんです。年間5,6冊書き飛ばしているというのはもちろん僕のことなんですが、その1冊と、その先生が20年かけて書き上げた畢生の労作d1冊を同点にするのはおかしいと言われたら、たしかにおかしい。でも、そう言われたら全部そうなんです。授業を何コマ担当しているかと言っても、「ウチダ君のように何の準備もしないで、その場で思いついた話をぺらぺら漫談のようにして90分終わらせる教員」と何時間も真剣に下準備をしてから教場に出かける教員の1コマが同じ1コマとして扱われるのは不当である。内容の違いを配点に反映させろと言われたら、こちらはぐうの音もありません。ほんとうなんだから。<br />
  191. 何より、気の毒だったのは、教員たちの実際の働きや貢献度を公的な立場から採点することを求められた方々です。だって、そういう人たちはすでに学部長とか学長とかしているわけです。そういう役職に選ばれる人たちというのは教育面でも学生の面倒見がよくて、研究でも高いアクティヴィティを誇っている方々です。そういうただでさえ忙しい人たちに同僚の査定をするという余計な仕事を押しつけることになった。評価活動というのは、そもそも研究教育を効率的に行い、質の向上を果たすために導入したものです。でも、やってみてわかったのは、そんなことのために査定システムを考案したり、合意形成をもとめて会議をしたり、あれこれ書類を書いたりしていたら、それは全部研究教育学務のための時間に食い込んでくるということでした。評価コストは評価がもたらすベネフィットを超える。研究教育の向上のための評価が研究教育の劣化をもたらすという事実に、僕は評価活動をはじめて半年ほどで気がつきました。<br />
  192. 僕が教員評価にこだわったのは、教員の中に、あきらかに給料分の働きをしていない教員たちがいたからです。ろくに仕事をしないで高給を食んでいる人たちが手を抜いているせいで、学務の負担が他の教員に回ってくる。さぼる教員のせいで、他の教員たちの研究教育の時間が削られている。それがどうしても許せなかった。そういう怠け者をあぶり出して、仕事をさせなくちゃいけないと思って、教員を管理する仕組みを考えたのです。<br />
  193. でも、これはまったく失敗だった。だって、怠け者の教員というのは評価しようとしまいと関係ないからです。休日を返上してセクハラ講習会を開いても、セクハラ教員はそういう講習会には来ないのと一緒です。絶対にセクハラなんかしそうもない人たちだけが集まってまじめに研修している。そういうのは時間の無駄なんです。働かない人は評価システムがあろうがなかろうが働かない。せいぜい給料分ぎりぎりしか働かない。でも、評価システムを制度設計し、立ち上げ、維持運営するために、これまで研究教育で高い成果を上げて来た教員たちの時間と労力を奪うことになった。この人たちはこれまでもらう給料の何倍もオーバーアチーブしていたわけですけれど、その人たちの足をひっぱることになった。だから、評価システムの導入は、トータルでは、大学全体の研究教育のパフォーマンスを下げることにしかならなかった。<br />
  194. 国立大学の場合はもっと悲惨です。独立行政法人化から後、日本の大学の学術発信力は一気に低下しましたけれど、それも当然なんです。法人化があって、学部改組があって、カリキュラム改革があって、そこに自己評価や相互評価が入ってきて、次はCOEだとかRU11だとかグローバル人材教育とか、ついには英語で授業やれとか言われて、この15年くらいずっとそういうことに追い回されてきたわけです。そういう仕事を担当するのは、どこの大学でも30代40代の仕事の早い教員たちです。頭がよくて手際のよい教員たちが、そういう「雑務」を押しつけられた。会議とペーパーワークだけで研究者として脂の乗り切る10年間を空費してしまったという教員が日本中の国立大学に何百人となくいるのです。この人たちがその時間を研究教育に充てていたら、どれぐらいの学的達成が蓄積されたか、それを思うと失ったものの大きさに言葉を失います。<br />
  195. 今は定年前に辞める教員がどこの大学でも増えています。専任教員として教えなくても、授業だけすればいいという特任教員の給与や著述での収入だけで生活が成り立つという人はそういう方を選んでしまう。だって、あまりにばかばかしいから。グローバル人材育成と称して、今はどこでも英語で授業をやれというプレッシャーがかかっている。どう考えても、日本人の学生相手に日本人の教員が英語で授業やることに意味があるとは思えない。<br />
  196. 実際にそういう大学で働いている人に聞きましたけれど、オール・イングリッシュで授業をするとクラスがたちまち階層化されるんだそうです。一番上がネイティヴ、二番目が帰国子女、一番下が日本の中学高校で英語を習った学生。発音のよい順に知的階層が出来て、いくら教員が必死に英語で話しても、ネイティヴが流暢な英語でそれに反対意見を述べると、教室の風向きが一斉にネイティヴに肩入れするのがわかるんだそうです。コンテンツの当否よりも英語の発音の方が知的な位階差の形成に関与している。<br />
  197. これも英語で授業をしている学部の先生からうかがった話ですけれど、ゼミの選択のときに、学生たちはいろいろな先生の研究室を訪ねて、しばらくおしゃべりをする。その先生のところに来たある学生はしばらく話したあとさらっと「先生、英語の発音悪いから、僕このゼミはとりません」と言ったそうです。その方、日本を代表する批評家なんですけれど、学生はその名前も知らなかった。<br />
  198. そういうことが今実際に起きているわけです。ではなぜこんなに英語の能力を好むというと、英語のオーラルが教員の持っている能力の中で最も格付けしやすいからです。一瞬で分かる。それ以外の、その人の学殖の深さや見識の高さは短い時間ではわからない。でも、英語の発音がネイティヴのものか、後天的に学習したものかは1秒でわかる。<br />
  199. 『マイ・フェア・レディ』では、言語学者のヒギンズ教授が出会う人たち一人一人の出自をぴたぴたと当てるところから話が始まります。『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショーの『ピグマリオン』という戯曲です。ショーはヒギンズ教授の口を通して、イギリスでは、誰でも一言口を開いた瞬間に出身地も、職業も、所属階層も分かってしまうということを「言語による差別化」(verbal distinction)としてきびしく告発させます。ヒギンズ教授は誰でも口を開いて発語したとたんに、その出身地も学歴も所属階級もわかってしまうというイギリスの言語状況を批判するためにそういう曲芸的なことをしてみせたのです。すべてのイギリス人は同じ「美しい英語」を話すべきであって、口を開いた瞬間に差別化が達成されるような言語状況は乗り越えられねばならない、と。だから、すさまじいコックニー訛りで話す花売り娘のイライザに「美しい英語」を教えて、出身階層の軛から脱出させるという難事業に取り組むことになるのです。<br />
  200. でも、今日本でやろうとしているのは、まさにヒギンズ教授がしようとしたことの逆方向を目指している。口を開いた瞬間に「グローバル度」の差が可視化されるように英語のオーラル能力を知的優越性の指標に使おうとしているんですから。それは別に、英語がネイティヴのように流暢に話せると知的に生産的だからということではなく、オーラル能力で階層化するのが一番正確で、一番コストがかからないからです。<br />
  201. 日本中の大学が「グローバル化」と称して英語教育、それも会話に教育資源の相当部分を費やすのは、そうすれば知的生産性が向上するという見込みがあるからではないんです。知的な生産性という点から言ったら、大学ではできるだけ多くの外国語が履修される方がいい。国際理解ということを考えたら、あるいはもっと現実的に国際社会で起きていることを理解しようと望むなら、英会話習得に教育資源を集中させるよりは、外国語履修者が中国語やドイツ語やトルコ語やアラビア語などに散らばった方がいいに決まっている。でも、そういう必要な外国語の履修については何のインセンティブも用意されていない。それは、英語の履修目的が異文化理解や異文化とのコミュニケーションのためである以上に格付けのためのものだからです。<br />
  202. TOEICはおそらく大学で教えられているすべての教科の中で最も格付けが客観的で精密なテストです。だからみんなそのスコアを競うわけです。競争相手が多ければ多いほど優劣の精度は高まる。前に申し上げた通りです。だから、精密な格付けを求めれば求めるほど、若い人たちは同じ領域にひしめくようになる。「誰でもできること」を「きわだってうまくできる」ことの方が「できる人があまりいないこと」を「そこそこできる」ことよりも高く評価される。格付けに基づいて資源分配する競争的な社会は必然的に均質的な社会になる。そうやって日本中の大学は規格化、均質化し、定型化していった。<br />
  203. 若い人たちは今でも地方を出て東京に行きたがります。そして、ミュージシャンだったり俳優だったり、カメラマンだったり、デザイナーだったり、とにかく才能のある人が集まっているところに行きたがる。それは精密な査定を求めてそうしているのです。故郷の街にいて、どれほどまわりから「町で一番才能がある」と言われても、それでは納得できないのです。もっと広いところで、たくさん競争相手がいるところに出てゆきたい。正確な格付けを求めてそうするのです。競争相手がたくさんいる領域に突っ込んでいって、低い格付けをされても、それは自分のようなことをしている人間が自分ひとりしかいない環境で、格付けされないでいるよりはまだましなんです。狭いところで「あなたは余人を以ては代え難い」と言われることよりも、広いところで「あなたの替えはいくらでもいる」と言われる方を求める。それは自分の唯一無二性よりも自分のカテゴリー内順位の方が自分のアイデンティティを基礎づけると彼らが信じているからです。「そんなことをしているのは自分しかいない」という状態が不安で仕方がないのです。「みんなやっていることを自分もやっている」方がいいのです。たとえどれほど低くても、精度の高い格付けを受けている方が安心できるのです。これは現代日本人が罹患している病です。そして、日本の大学もまたそれと同じ病に罹っている。<br />
  204. 大学に格付けを要求するのは社会全体からの要請です。あなたの大学がどういう大学であるのかは、「他の大学を以ては代え難い」ところの唯一無二の個性によってではなく、日本のすべての大学を含む単一のランキングにおいて何位であるかによって決定される、そういう考え方に日本中が同意しているのです。そのせいで、大学の多様性が失われた。本当にユニークな研究教育活動は比較考量ができませんから、格付けすると「評価不能」としてゼロ査定される。研究教育活動がユニークであればあるほど評価が下がるという仕組みがもう出来上がっているのです。そのせいで日本の大学の学術的発信力は致死的なレベルにまで低下している。しかし、文科省はその学術的発信力の低下を「グローバル化が不十分だから。実学への資源投資が不十分だから」という理由で説明して、さらに全国の大学を均質化し、規格化し、競争を激化させ、格付けを精密にしようとしている。その結果、ますますユニークな研究教育のための場所は失われている。<br />
  205. そんなことをしているんですから、日本の大学に未来がないのは当然なんです。多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。<br />
  206. 教育の目的というのは、一言にして尽くせば、どうやって若い同胞たちの成熟を支援するか、それだけです。格付けとは何の関係もない。精密な格付けをすれば、若い人たちがどんどん知性的・感性的に成熟するというエビデンスがあるというのなら、大学からイノベーティヴな発見が次々世界に向けて発信されているというエビデンスがあるというのなら、格付けしたって結構です。でも、そんなエビデンスはどこにもありません。あるのは、大学が評価や査定や格付けにかまけてきた間に日本の大学の学術的発信力は先進国最低レベルに低下したという冷厳な事実だけです。<br />
  207. 今、子どもたちの貧困が大きな社会問題になっていますけれど、貧困層の再生産には残念ながら子どもたち自身も消極的には加担してるんです。それは貧困層の人たちに対しては学校でも地域社会でも、「貧乏人らしくふるまえ」という強いプレッシャーがあるからです。貧しい人間は身を縮めて生きるべきだ、イノベーションを担ったり、リーダーシップをとったりすることは許されない。そういう考え方を持つ人が多数派です。そして、貧困層自身も、そういう社会観を自身のうちに内面化してしまっている。自分は貧しいのだから、楽しそうに生きてはいけない。明るくふるまってはいけない。新しいアイディアを提出してはいけない。リーダーシップをとってはいけない、そういう外部からの禁圧をそのまま内面化してしまっている。<br />
  208. 以前、ある子育て中の母親がそう訴えていました。その人はシングルマザーで、確かに生活は苦しい。本当なら、親が貧しいことと子どもたちがのびのびと暮らすことの間には関係ないはずなのだけれど、貧しいというだけで、子どもたち自身が委縮してる。貧しい人間はにこにこしてはいけないと思っている。貧しくて不幸だという顔をしなくてはいけない。周囲がそういうふるまいを期待しているので、子どもたちはそれに応えてしまっているんじゃないか、と。<br />
  209. これは例えば生活保護を受けてる人がパチンコやったら許さないとか、芝居や映画見に行ったら怒るとかいうのと同じですね。主婦が子どもを保育園に預けて演劇見に行ったら、「ふざけるな」と怒鳴る人がいる。意地悪なんです。それが社会的なフェアネスだと本気で思って、意地悪をする。異常ですよ、皆さん。でも、日本はもうそういう異常な人が自分のことを「異常」だと思わないくらいに異常な社会になっているんです。<br />
  210. 同じことが大学生自身にも起きている。低いランク付けをされると、自動的に自己評価も下方修正してしまう。あなた方はランクが低いんだから、もっとおどおどしなさい、もっといじけなさいって言われると、大学生の方も納得してしまって、おどおどして、いじけるようになる。格付けのせいで、いじけて、怯えて、自己評価を下げて、自分には何もたいしたことなんかできやしないと思っている若者たちを今の日本社会は大量に生み出しています。そんな人たちがどうして未来の日本を支えてゆくことができるでしょう。<br />
  211. 冒頭に結論を申し上げましたけど、とにかく日本の大学は、今行われているような仕組みを是認されるのであれば、先はないです。日本の大学は滅びます、遠からず。どこかで抵抗するしかありません。「もういい加減にしてくれ」って、声を上げるべきです。文科省だってそんなにバカばかりじゃない。官僚の中には過去25年間の教育行政がことごとく失敗だったということを素直に認める人だってきっといると思います。でも、役人はその性として「間違えました」「すみません」とは言いません。<br />
  212. だから、大学側で声を合わせて言うしかないんです。国立大学の先生は立場上なかなか声を出しにくいかも知れませんけれど、でも声を出して欲しい。どうしたら教職員がイノベーティブになれるか。どうしたらキャンパスの中がもっと明るくなるか。教職員も学生も笑顔でいて、知的な刺激に満ちている環境をどうやって作るか。それについて考える事が最優先の課題だと僕は思います。<br />
  213. このまま手をつかねていたら、日本の大学は滅びます。皆さんが生活を犠牲にして、命を削って、大学のフロントラインを死守していることを僕はよく存じていますし、それに対して敬意も持ってます。でも、生身の人間ですから、無理は効きません。どこかで燃え尽きてしまう。だから、燃え尽きる前に、声を上げて欲しいと思います。「もういい加減にしろ」って。ちゃぶ台をひっくり返して頂きたい。日本中の学校で先生たちが一斉にちゃぶ台返しをしてくれたら、日本の未来も大学教育も救われるんじゃないかと思ってます。どうぞ頑張っていただきたいと思います。<br />
  214. ご清聴ありがとうございました。<br />
  215. (2016年5月19日、国立大学教養教育実施組織会議特別講演・サンポートホール高松にて)</p>]]>
  216.      
  217.   </content>
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  220.   <title>橘真さんのこと</title>
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  223.  
  224.   <published>2017-10-24T23:02:46Z</published>
  225.   <updated>2017-10-24T23:25:48Z</updated>
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  227.   <summary>橘真さんが亡くなった。 数年前から癌で闘病生活を過ごしておられたけれど、今年の五...</summary>
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  235.      <![CDATA[<p>橘真さんが亡くなった。<br />
  236. 数年前から癌で闘病生活を過ごしておられたけれど、今年の五月に『哲学するレストラトゥール』という著書を出した後、グランフロントで江さんと対談したりしたので、病と折り合いながら、これからじわじわと多彩な活動を展開してくれるのだろうと期待していた矢先の訃報だった。<br />
  237. 橘さんとはじめて会ったのは『ためらいの倫理学』が出た直後2001年の秋のことで、その頃『Meets regional』の編集長だった江弘毅さんとお二人で岡田山の僕の研究室を訪ねてくれたのである。頂いた名刺で江さんが雑誌編集長だということはわかったので、たぶん原稿の依頼だろうとは思っていたけれど、橘さんが何者だかはわからない。<br />
  238. その江さんはその話はひとこともしないでアジサカコウジさんから届いたという『ためらいの倫理学』の感想文(巨大ポスターの裏にサインペンで書いてあった)を見せてくれた他は最初から最後まで江さんが筆頭若頭をつとめたその年の「岸和田のだんじり」の話だけをすごい勢いでしていた。橘さんは横で黙ってにこにこしているだけで、「この二人はいったい何しに来たんだろう」と怪訝な気持ちが募って来た頃に、江さんが「じゃあ、失礼します」と席を立ってしまった。そのときに橘さんが茶色い紙袋を取り出して、にっこり笑って「これ、どうぞ」と言ってワインをくれた。何しに来たかわからないけれど、いい人だなと思った。<br />
  239. それから橘さんのお店に通うようになった。北野のジャック・メイヨールも、ハービスENTにあったてんぷらやにも三宮のResetにも何度も行った。<br />
  240. 何年か前にソムリエをやめて淡路島で野菜とワイン造りをすると言い出したときも喜んで応援した。残念ながらワイン造りはついに実現しなかったけれど、農業はうまく行って、美味しい野菜を阪神間のレストランに卸していた。<br />
  241. 後から思うと「地方移住」ムーブメントの先駆者だった。<br />
  242. 思い出すことはたくさんある。<br />
  243. 最初で最後の著作になった『哲学するレストラトゥール』に「解説」を書いて欲しいと言われて喜んで書かせてもらった。書いておいてよかったと思う。<br />
  244. 弔辞に代えてそのときの解説を採録しておく。<br />
  245. 橘さんのご冥福をお祈りします。</p>
  246.  
  247. <p><br />
  248. 「橘さんのこと」</p>
  249.  
  250. <p>橘真さんの本が出ることになった。橘さんて、どんな文体で、どんなこと書くのかなと思ってゲラを読みだした。そして、ああ、これって橘さんの「しゃべり方」とまったく同じだな、と思ったら、いろいろ懐かしいことを思い出した。<br />
  251. 江弘毅さんに連れていってもらった北野のジャック・メイヨールでも、そのあと三宮でやっていたRESETでも、僕は橘さんとワインやウィスキーを飲みながらカウンター越しにずいぶん長い時間おしゃべりをした。僕が「行きつけのバー」というようなものにお店の人とおしゃべりをするためだけに足繁く(といっても月一くらいだけど)通ったのは後にも先にも橘さんのお店だけである。それくらいに橘さんの話は面白かった。<br />
  252. ふつう僕たちがバーのカウンターに肘をついて「いつものシングルモルトね」とかオーダーしてからバーテンダーとかわす会話には、その人が抱いている「大人の男というのはどういうものか」のイメージが濃密に投影される。どれほど自制心の強い男でも、投影されてしまう。そして、まあ、こう言っては申し訳ないけれど、世の男たちがバーのカウンターで演じて見せる「大人の男ぶり」というのは哀しいほどに定型的なのである。「オレの流儀」とか「こだわりの琥珀の時間」とか、そういうテロップを横につけて携帯で写真撮ってやりたくなるくらいに定型的なのである。僕は他人がそういうふうなのを見るのも恥ずかしいし、自分もそういうふうに「テロップ」付きの「男の横顔」とか演じているのかしらと自意識過剰になるのも恥ずかしいので、久しくそういう剣呑な場所には足を向けなかったのである。でも、唯一の例外が橘さんの店だった。<br />
  253. 橘さんの店のカウンターに座ると、すぐにおしゃべりが始まる。でも、それは全然「大人の男」たちの会話らしくない。どう言ったらいいのだろう。一番近いのは、元気のいい高校生が朝、扉をがらがらっと教室に飛び込んできて、仲のいい友だちの姿を見つけて、そばに駆け寄って「あのさ、今朝さ、すごく面白いもんみたぜ」と息せき切って話し始めるときの感じに近い。子どもの、というか少年たちの、会話である。<br />
  254. お酒を飲むお店でそういうことが許されたのは、思い返しても、ほんとうに橘さんのところだけだった。<br />
  255. ふつうは客が一方的にしゃべって、バーテンダーはグラスを磨いたり、ナッツを並べたりしながら、職業的な慇懃さで適切な相槌を打つことになっているけれど、橘さんの場合は違う。僕がわいわいしゃべっているときはにこにこ笑って聴いてくれるけれど、一区切りつくと、今の僕の話題にインスパイアされた橘さんが話を始めるのである。その話ぶりが実に面白い。<br />
  256. 橘さんがするのは、だいたい、その直前の話と直接つながりがない話である。「お話を伺っているうちに、ふとこんなことを思い出しました」という感じで橘さんの話は始まる。英語で言うとThat reminds me of a story というやつである。この場合のthat は文法的に言うと「前節の内容を漠然と承ける」働きをしているのだが、まさに「漠然と」であって、いったい、僕のした話の「どこ」を承けて橘さんが「そういえば」と切り出したのか、僕の方はよくわからない。<br />
  257. でも、僕の話に「レスポンス」して話し始めたわけだから、つながりはあるに決まっている。僕はしばしウィスキーを啜りながら、黙って橘さんの話に耳を傾ける。そうやってヨットの話とかレストランの話とか醸造技術の話がしばらく続いて(それはそれで実に興味深いトピックなんだけれど)、あるところでぷつんと終わる。その最後の一言。例えば「掃除が行き届いているかどうかということはときに命にかかわる問題なんです」とか「ソムリエが厨房とホールを行き来することではじめて流れができます」とか、そういう警句的なひとこと(村上春樹の小説の「小見出し」みたいな)を聞いてはじめて僕は自分の話の「どこ」が橘さんの関心にヒットしたのか、回顧的に知ることができる。そういう会話である。<br />
  258. 楽しそうでしょ。そういう会話をしていると、忙しくて「大人の男」なんてやってられないのである。</p>
  259.  
  260. <p>だから、橘さんがソムリエを止めて、淡路島で農業を始めると聞いたときは、正直言うとちょっとショックだった。僕にとって橘さんの店はわが生涯でほんとうにたった一軒の「行きつけのバー」だったわけで、それがなくなるのである。でも、ぱりぱりのシティボーイである橘さんがあえて麦わら帽子にゴム長で農業をやるというのであるから、そこには僕には計り知れない深い決意があってのことのはずである。そう思って、「がんばってね」と笑顔で送り出したのである。<br />
  261. それから8年経った。僕は病的出不精なので、淡路島の橘さんの農園に遊びに行ったことは一度しかない。ときどき橘さんから野菜や卵やジビエを頂くだけで、橘さんがどんな暮らしぶりなのか、ゆっくりお話を聞くという機会がなかった。そこにこの本のゲラが届いた。<br />
  262. 推薦文を書いてくださいというので喜んでお引き受けした。橘さんはいったいどんな文章を書いてきたのだろうとわくわくして頁をめくった。そして、何頁か読んで、うれしくなってきた。バーのカウンター越しにおしゃべりしていたときの口調と同じなのである。<br />
  263. あのときと同じように、最初に簡単に論点の提示がある。でも、そこからどこに行くかわからない話が始まる。「これからこういう話をします。序論ではこれこれ、一章ではこれこれ、二章ではこれこれ、結論ではこういうことを書きます」というふうに全体を予示してくれるアングロサクソン的論文作法なんか「知るかよ」という感じである。<br />
  264. ああ、いつもの橘さんだ。そう思って読んだ。懐かしかった。<br />
  265. でも、読者の多くはこれが橘さんの書いたものを読む初めての機会だろうから、ひとこと注意しておかなければいけない。橘さんの文体は、その語り口と同じように、自由である。そのときに頭に浮かんだアイディの尻尾をどこまでも追いかける。捕虫網を持った少年が真っ黒な足を激しく動かしながら、田んぼを突っ切り、小川を飛び越え、森の中を走り回っているのと同じである。ここに記されているのは、その「足跡」である。その足跡のびっくりするような歩幅の広さや、ユニークな方向転換を僕たちは味わえばいいのである。「で、いったい何を追っかけていたんですか?」とか「要するに何がおっしゃりたいわけですか」とかいう野暮なことを言ってはいけない。僕がバーで橘さんの話を聞いていたときのように、カウンターに肘を衝いて、美味しいお酒をちびちび啜りながら、その響きのよい声にぼんやり耳を傾けていればいいのである。<br />
  266. 橘さんにはこのあとも書き続けて欲しい。できれば、もっと長いものを。ぜひ、お願いします。</p>]]>
  267.      
  268.   </content>
  269. </entry>
  270. <entry>
  271.   <title>機と座</title>
  272.   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2017/10/12_1504.php" />
  273.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1834</id>
  274.  
  275.   <published>2017-10-12T06:04:21Z</published>
  276.   <updated>2017-10-12T06:21:23Z</updated>
  277.  
  278.   <summary>ある媒体に「武道と能楽」というテーマでエッセイを寄稿した。 ほとんどは「いつもの...</summary>
  279.   <author>
  280.      <name></name>
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  283.  
  284.  
  285.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  286.      <![CDATA[<p>ある媒体に「武道と能楽」というテーマでエッセイを寄稿した。<br />
  287. ほとんどは「いつもの話」だが、「機と座」については、稽古のときには時々語るけれど、書き物にしたことはない。この機会に合気道の道友たちに読んでもらうつもりでネットに上げておく。</p>
  288.  
  289. <p>合気道という武道を40年、観世流の能楽20年稽古してきた。いずれも「日暮れて道遠し」だが、この二つの技芸の連関をそれぞれの実践者という立場から語る人があまりいない。この立ち位置を奇貨として、二つの領域の「あわい」から見えるものについて一言書きとめておきたい。<br />
  290. 武道と能楽の間には深い繋がりがある。今でも私たちが容易に手に取るこのできる最古の武道の伝書の一つ、柳生宗矩の『兵法家伝書』は能楽の比喩がたいへんに多い。代表的な箇所を引く。</p>
  291.  
  292. <p>「あふ拍子はあしゝ、あはぬ拍子をよしとす。拍子にあへば、敵の太刀つかひよく成る也。拍子ちがへば、敵の太刀つかはれぬ也。敵の太刀のつかひにき様に打つべし。つくるもこすも、無拍子にうつべし。惣別のる拍子は悪しき也。」(柳生宗矩、『兵法家伝書』、岩波文庫、43頁)</p>
  293.  
  294. <p>「たとへば、上手のうたひはのらずしてあひをゆく程に、下手鼓はうちかぬる也。上手のうたひに下手鼓、上手の鼓に下手うたひの様に、うたひにくゝ、打ちにくき様にしかくるを、大拍子小拍子、小拍子大拍子と云ふ也。」(同書、43-44頁)</p>
  295.  
  296. <p>いずれも能楽用語が剣の遣い方について用いられている。<br />
  297. 私のように能楽を稽古しているものにとっては、こういう喩はたいへんわかりやすいが、これは宗矩が能楽好きだったのでたまたま能楽の比喩を選好したということではないと思う。<br />
  298. というのは、『兵法家伝書』そのものは家伝とはいいながら、柳生新陰流の「パブリックドメイン」として修業者たちに共用されることを意図して書かれたものだからである。個人的趣味の芸能の比喩を頻用することは家伝の継承という点からすれば有害無益なことである。しかし、宗矩はあえて、執拗なほどに能楽の比喩を用いた。<br />
  299. ということは、この時代の剣客たちが、能楽修業が求める技術や心得が剣術と深く通じるものであることを知っていたということである。<br />
  300. 逆から言えば、能楽が武士階級のもの以外には観ることも、演じることも禁止されていた時代において、能楽の喩えを用いて剣術の蘊奥を語ることは、暗号によって秘伝を語っていたということを意味している。能楽の比喩を用いて語る限り、武士階級以外のものにはそこで何が語られているのかわからなかったからである。</p>
  301.  
  302. <p>囃子と謡の拍子がずれると、能楽は物理的に成り立たない。これは能楽を稽古する者には熟知されていることである。<br />
  303. 能楽を扱った珍しい小説に泉鏡花の『歌行燈』があるが、この中で天才能楽師恩地喜多八が宗山という伊勢の天狗連を訪れて、その謡を聞きながら、膝を打つ拍子だけで絶息させる印象的な場面がある。<br />
  304. 「この膝を丁と叩いて、黙って二ツ三ツ拍子を取ると、この拍子が尋常んじゃない。親なり師匠の叔父きの膝に、小児の時から、抱かれて習った相伝だ。対手の節の隙間を切って、伸縮を緊めつ、緩めつ、声の重味を刎上げて、咽喉の呼吸を突崩す。(…)いささか心得のある対手だと、トンと一つ打たれただけで、もう声が引掛って、節が不状に蹴躓く。(…)あわれや宗山。見る内に、額にたらたらと衝と汗を流し、死声を振絞ると、頤から胸へ膏を絞った……ものの本をまだ一枚とうたわぬ前、ピシリとそこへ高拍子を打込んだのが、下腹へ響いて、ドン底から節が抜けたものらしい。はっと火のような呼吸を吐く、トタンに真俯向まうつむけに突伏す時、長々と舌を吐いて、犬のように畳を嘗めた。」</p>
  305.  
  306. <p>「うたひにくゝ」鼓を打てば、素人は知らず、ある程度稽古を積んだものは息ができなくなる。それほどに拍子というのはきびしいということをこれほど鮮やかに伝えたものは珍しい。</p>
  307.  
  308. <p>能楽と武道の「出会い」について書かれた文献としては松浦静山の『甲子夜話』が知られている。<br />
  309. 徳川家光が将軍家御指南番であった柳生宗矩に、シテ方観世大夫の所作について「若し彼が心に透間ありて、こゝを斬るべき所と思はゞ申すべし」と告げたことがあった。舞台を見終えたあとに、宗矩は家光にこう述べた。</p>
  310.  
  311. <p>「始より心をつけゐ候に、少しも斬るべき際だなく候。しかし舞の中、大臣柱の方にて隅をとり候とき少しく透間の候。あの所にて斬り候はゞ斬りおほすべく候半と言上す。」(松浦静山、『甲子夜話6』、平凡社、1978年、174頁)</p>
  312.  
  313. <p>観世大夫の方は楽屋に戻ってから、傍らの人にこう訊いた。<br />
  314. 「今日見物の中に一人、わが所作を見ゐたる男あり。何者か」。<br />
  315. あれは柳生但馬守だと教えると、観世大夫はこう言った。<br />
  316. 「されば社我が所作を目も離さず観ゐられしが、舞の中に隅をとりし所にて少し気を抜きてあるとき、莞爾と咲はれつつが心得ざることよと思ひゐしに、果たして剣術の達人にぞ坐しけれと云ける。」(同書、174頁)</p>
  317.  
  318. <p>達人の境位がどういうものかを教えてくれる逸話である。<br />
  319. 武道における「隙」というのは文字通り空間的・時間的な「隙」のことであり、また「心の隙」のことである。身体の隙も心の隙も、居着きによってもたらされる。身体の一部の過緊張は他のどこかの部位の過弛緩をもたらし、思念の一点への居着きも隙を作る。<br />
  320. 居着くというのは、点としての入力に点として「反応」することであり、これは自他を含む場全体を平らかに「観察」することを妨げる。観察とは時間の流れ、場の布置におけるおのれの位置を鳥瞰的に把持することである。これは武道において最も重要な能力である。どれほど凄まじい攻撃であっても、その一瞬前にその場を通り過ぎていれば、その一寸遠くに身をかわしていれば、人を害することができない。<br />
  321. それゆえ、<strong>武道では「機」と「座」を重く見る</strong>。<br />
  322. 「機」とは「しかるべきとき」のことであり、「座」とは「しかるべき場所」のことである。その時以外にありえないような必然的な時に、その場以外にはありえない必然的な場において、果たすべきことを果す。それが兵法修業のめざすところである。宗矩は機と座についてこう書いている。</p>
  323.  
  324. <p>「一座の人の交りも、機を見る心、皆兵法也。機を見ざればあるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゞり、人の機を見ずしてものを云ひ、口論をしいだして、身を果す事、皆機を見ると見ざるにかゝれり。座敷に諸道具をつらぬるも、其の所々のよろしきにつかふまつる事、是も其の座を見る事、兵法の心なきにあらず。」(柳生宗矩、前掲書、25頁)<br />
  325.  <br />
  326. 「機を見ず」して、「あるまじき座」にいることによって人はしばしば身を滅する。自分がいるべき場にいるのかを配慮するのが「機を見る」であり、必要なものを然るべきところに配置することを「座を見る」と言う。これもまた「兵法の心」なしにはありえない。<br />
  327. 「機を見る」「座を見る」これは武道や能楽のみならず人事百般に通じる心得である。 <br />
  328. </p>]]>
  329.      
  330.   </content>
  331. </entry>
  332. <entry>
  333.   <title>こちらは「サンデー毎日」没原稿</title>
  334.   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2017/10/03_1316.php" />
  335.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1832</id>
  336.  
  337.   <published>2017-10-03T04:16:40Z</published>
  338.   <updated>2017-10-03T04:45:56Z</updated>
  339.  
  340.   <summary>こちらは「サンデー毎日」の没原稿。 9月末日締め切りで、9月19日に書き上げての...</summary>
  341.   <author>
  342.      <name></name>
  343.      
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  345.  
  346.  
  347.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  348.      <![CDATA[<p>こちらは「サンデー毎日」の没原稿。<br />
  349. 9月末日締め切りで、9月19日に書き上げてのんびりしていたら、解散、小池新党、民進党解党、希望維新連携、立憲民主党結党・・・と文字通り政局が日替わり。おかげで「北朝鮮と安倍政権」という論の枠組み自体にまったくニュースとしての鮮度がなくなってしまった(北朝鮮のミサイル攻撃が明日にでもあるぞ、というあの官邸の煽りは何だったんだろう)。<br />
  350. でもまあ、書いたわけなので、このまま筐底に腐らせるよりは日の眼を見せてあげようということで、ブログにて公開。</p>
  351.  
  352. <p>北朝鮮の核実験とミサイル発射によって東アジアの軍事的情勢が緊張度を増している。「米朝もし戦わば」というようなシミュレーションを妙にうれしげに語っている専門家たちがいる。戦争が始まるというのがそんなにわくわくすることなのだろうか。日本の国土にミサイルが着弾して多くの死傷者が出たり、稼働中の原発が被弾したりするリスクを考えたら、石にかじりついても軍事的衝突を回避したいと望むのが「人情」だと思うけれども、そうではない人たちも日本人の中には多くいるということである。<br />
  353. 安倍首相は北朝鮮への圧力の行使にはたいへん熱心だが、「全力を挙げて戦争を回避する」ということは口にしない。だから、国際社会からは「首相はほんとうに朝鮮半島情勢の鎮静化を望んでいるのか」について懸念が語られている。その懸念について誰も責任ある回答をしないようなので、私が海外の皆さんの懸念について、日本人を代表してお答えしたいと思う。<br />
  354. 安倍首相は本気で「戦争をする気でいる」。だから、そのための環境づくりにたいへん熱心なのである。彼が続く内政面での失敗にもかかわらず、いまだに高い支持率を誇っているのは、彼の好戦的な構えを好感する有権者がそれだけ多いからである。<br />
  355. 仮に起きた場合に、米朝戦争がどれほどの規模のものになるのか、首相もその周辺もたぶん何も考えていない。そういう実務的なことを考えて、コントロールするのは米軍であって、自衛隊は米軍の指示に従って動けばいい。そう考えている。<br />
  356. そして、米朝戦争の主戦場は朝鮮半島かせいぜい日本海にとどまるであろうと期待している。万が一不運にもミサイルが日本国内に着弾する場合も、政府は住民の生命財産の保全にはそれほど強い関心を持っていない。以前、山本太郎参院議員が国会で稼働中の原発へのミサイル着弾の被害予測について質問した時、当時の原子力規制委員会の田中俊一委員長は「弾道ミサイルが直撃した場合の対策は、求めておりません」と回答した。安倍首相は「仮定の質問であり、お答えすることを差し控えたい」と質問を一蹴した。要するに原発は軍事的攻撃に対してきわめて脆弱であることを認めた上で、原発被弾に伴う被害のシミュレーションも、住民の避難計画の策定も、何もしていないと認めたのである。<br />
  357. 避難計画というはふつう「考え得る最悪の状況がもたらす被害を最小化するため」に立案されるものだが、首相は「考え得る最悪の状況」は「仮定」のことなので、それに基づいて具体的に何かの備えをすることはしないと答えた(備えがあれば、自慢げに「万全の備えをしております」と答えたはずである)。<br />
  358. しかし、政府は原発への被弾については想定していないが、ミサイルによる日本領土の攻撃は想定している。想定しているからこそ、全都道府県に対して、ミサイル着弾時の避難訓練の実施を要請しているのである。<br />
  359. だが、原発が被弾して、3・11の時と同じように放射性物質が飛散することになった時に、地域住民は「頑丈な建物や地下に避難し、できるだけ窓から離れ、物陰に身を隠すか地面に伏せて頭部を守」ったとして、その後はどうすればいいのか。それについては何の指示もない。<br />
  360. 国民を軍事的被害から守るための手立てを十分に講じることをしないまま、首相や外相は北朝鮮情勢を鎮静化することには興味を示さず、むしろ無用の挑発を続けている。<br />
  361. この事実から推論できるのは、(官邸がまったく思考能力を失っているという可能性を排除した場合)、彼らは戦争を始めたがっており、いったん戦端が開かれた後も、戦争被害を最小化することにはあまり興味を持っていないということである。いや、むしろ被害が大きく、国民の「敵」への憎悪や反感が募れば、それによって内閣支持率がV字回復することは高い確率で期待できると考えているのではないか。<br />
  362. というのは、カラフルな実例があるからだ。支持率50%に低迷していたジョージ・W・ブッシュ大統領は9・11直後に支持率92%を記録して米大統領としての「史上最高の支持率」を記録した。保守党史上最低の支持率に苦しんでいたマーガレット・サッチャーはフォークランド紛争に勝利して、「Great Britain is great again」と宣言して、73%という驚異的な支持率を獲得した。おそらく安倍首相は彼らの成功体験に強い羨望を抱いているはずである。<br />
  363. 米朝間で戦争が始まった場合でも、北朝鮮の備蓄を考えると、戦闘そのものは長期化することはないだろう。けれども、戦闘が終わっても、その後の朝鮮半島は手の付けられない惨状となる。<br />
  364. それでも隣国の内閣支持率は急騰が期待できる。というのも、「こんなこと」があると思ったからこそ、特定秘密保護法も、集団的自衛権の行使容認も、安保法制も、すべて「打つべき手を事前に打っておいた」という事後的な正当化ができるからである。<br />
  365. 半島で戦闘が終わっても、まだ正常化にほど遠く、例えば北朝鮮からの難民がボートで脱出して漂着する可能性があったとしたら、政府は「国難的危機のときに悠長に国会審議などしていられない。行政府に全権を」と訴え、国民的熱狂の中、一気に改憲を実施して、緊急事態を宣言しようとするだろう。<br />
  366. 宣言がなされれば憲法は停止され、国会は休会となり、政府が発令する政令が法律を代行する独裁制が完成する。<br />
  367. 自民党の改憲草案を読めばわかる通り、緊急事態宣言下は選挙が行われないので、最初に宣言に同意した議員たちは終身議員となる。彼らが同意し続ければ、緊急事態宣言は法理上半永久的に延長可能である。<br />
  368. 緊急事態宣言下では反政府メディアも反政府的な市民運動も存立できない。院外での抗議のデモや集会を行えば、それ自体が「社会秩序の混乱」と解釈されて、緊急事態宣言の正当性の根拠を提供するだけだからである。<br />
  369. なぜ安倍首相はそのような事態の到来を願うのか。彼が単に独裁的権力を享受して「ネポティズム政治」を行って、身内を厚遇し、政敵を失脚させ、イエスマンに囲まれて、私腹を肥やそうとしているというような解釈はまったく当を失している。ネポティズムは目的達成のための手段であり、またその「副産物」であって、目的ではない。<br />
  370. 安倍晋三は身内を重用するために政治をしているわけではない。そもそもそのような利己的な人物に対して国内の極右勢力が熱狂的な支持を与えるということは考えればありえないことだ。<br />
  371. <strong>彼がめざしているのは「戦争ができる国」になることである</strong>。<br />
  372. 彼の改憲への情熱も、独裁制への偏愛も、たかだか手段に過ぎない。彼の目的は「戦争ができる国」に日本を改造することにある。国家主権を持たぬ属国であるのも、国際社会から侮られているのもすべては「戦争」というカードを切ることができないからだと彼は考えている。そして、たいへんに心苦しいことであるけれど、この考え方には一理あるのである。だから、極右の人々は安倍首相に揺るがぬ支持を与えているのであるし、自民党や維新や民進党の議員たちがこまめに靖国神社に参拝してみせるのは、<strong>そうすれば「戦争ができる国になりたい」と(口には出さず)念じている人々の票が当てにできるということを知っているからである。</strong><br />
  373. 「戦争ができる国になりたい。戦争ができない国であるのは理不尽だ」というのは、ある意味で現実的な考え方である。というのも、現実に世界の大国は「戦争」カードを効果的に切ることによって、他国を侵略し、他国の国土を占拠し、他国民を殺傷し、それを通じて自国の国益を増大させるということを現にしており、それによって大国であり続けているからである。国連の安保理事会の常任理事国はどれも「そういうこと」をしてきた国である。だが、日本はそうふるまうことを禁じられている。東京裁判によって、サンフランシスコ講和条約によって、日本国憲法によって、「そういうこと」をすることを禁じられている。<strong>戦争に負けたことによって日本人は「戦争ができる権利」を失った。</strong><strong>失ったこの権利は戦争に勝つことによってしか回復されない、そういう考え方をする日本人がいる</strong>。私たちが想像しているよりはるかに多くいる。でも、そう思っているだけで口にしない。だから匿名でネットで発信し、自民党やその他の極右政党に投票する。<br />
  374. 重要なのは、彼らがそう思っていることをはっきりと口にしないことである。なぜ、彼らは「戦争ができる国になりたい。自国の国益を守るために他国を攻撃するのはすべての国に固有の権利のはずだ」と言い切れないのか。<strong>それはここでいう「他国」にアメリカも含まれているからである。</strong><br />
  375. 日本の極右がねじれているのは、はっきりと「アメリカを含むすべての国と好きな時に戦争を始める権利が欲しい」と言うことに対しては激しい禁圧がかかっているからである。その言葉を口にすることはアメリカの属国である現代日本においては指導層へのキャリアパスを放棄することを意味している。政界でも、官界でも、財界でも、学界でも、メディアの世界でも、出世したければ、脳内にどれほど好戦的な右翼思想を育んでいる人物でも「アメリカを含むすべての国と好きな時に戦争を始める権利が欲しい」ということは公言できない。したら「おしまい」だからである。<br />
  376. けれども、<strong>アメリカが日本から奪った「戦争する権利」はアメリカと戦争して勝つことによってしか奪還できないのは論理的には自明のことである</strong>。この自明の理を「一度として脳裏に浮かんだことがないアイディア」として抑圧し、対米従属技術を洗練させ、後はひたすら中国韓国を罵り、国内の「反日」を敵視することでキャリアを形成してきた日本の指導層の人々の言うことが、こと国家主権と戦争の話になると何を言っているのか分からないほどに支離滅裂になるのはそのせいなのである。<br />
  377. はっきり口に出して言えばいいのに、と私は思う。安倍首相は「戦争ができる国」になりたいだけではない。「アメリカとも、必要があれば戦争ができる国」になりたいのである。「思っているでしょう?」と訊いても必死で否定するだろうけれど、そう思っていると想定しないと彼の言動は説明できない。<br />
  378. 彼は属国の統治者であり、あらゆる機会に宗主国アメリカに対する忠誠を誇示してみせるけれど、まさにそのアメリカが日本に「与えた」最高法規をあしざまに罵り、そこに書かれているアメリカの建国理念や統治原理に対して一片の敬意も示さない。彼はアメリカが自国の国益増大に資すると思えば、どのような非民主的で強権的な独裁者にも気前の良い支援を与えて来た歴史を知っている。朴正煕も、マルコスも、スハルトも、ピノチェトも(CIAの役に立つと判断されていた間は)ノリエガも、アメリカは支持した。今のアメリカの国益を最大限に配慮する限り、どれほどアメリカの建国理念や統治原理を憎んでいても、属国の支配者の地位は安泰であることを知っている。その地位を利用して、彼はまず「アメリカと一緒に戦争する権利」を手に入れた。まだ戦争そのものにはコミットしていないが、憲法違反である戦争参加を制度的には合法化することに成功したし、御用メディアと御用知識人たちを活用して、交戦は主権国にとって当然の権利だという「空気」を醸成し、山本七平のいう「感情の批准」をいま着々と進めている。<br />
  379. だから、ここまで来れば、彼の支持者たちは「次の一手」を期待している。それはまず「アメリカの許諾を得ずに勝手に戦争をする権利」であり、最終的には「アメリカとも戦争をする権利」を手に入れることである。<br />
  380. 私がわからないのは、アメリカの国務省がこれくらいわかりやすい話についていつまでも「知らないふり」をしていることである。たぶん使える限り引っ張って、どこかで日本人の抑圧された対米憎悪の「びんの蓋」が外れる気配を見て取ったら「泣いて馬謖を切る」つもりでいるのだろうと思う。わが宗主国はその点では憎いほどにクールな国である。</p>
  381.  
  382. <p>というようなことを9月19日に書いたときには「時宜にかなった記事だ」と思っていたのだけれど、政局の前に吹き飛んでしまった。<br />
  383. テレビニュースが「面白い」時は、こういう原理的な分析は相手にされないのである。<br />
  384. でも、ここに書いたことは今もそのまま私の意見である。<br />
  385. </p>]]>
  386.      
  387.   </content>
  388. </entry>
  389. <entry>
  390.   <title>昨日の朝日新聞への寄稿</title>
  391.   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2017/10/03_1306.php" />
  392.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1831</id>
  393.  
  394.   <published>2017-10-03T04:06:38Z</published>
  395.   <updated>2017-10-03T04:12:54Z</updated>
  396.  
  397.   <summary>昨日(10月2日)の朝日新聞にやや長めのコメントを寄せた。 総選挙について。日替...</summary>
  398.   <author>
  399.      <name></name>
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  403.  
  404.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  405.      <![CDATA[<p>昨日(10月2日)の朝日新聞にやや長めのコメントを寄せた。<br />
  406. 総選挙について。日替わりで事件が起こるので、書いた段階では立憲民主党の結党のニュースはまだ知られていなかったので、それについては言及がない。</p>
  407.  
  408. <p>北朝鮮ミサイル問題で政権の支持率が回復し、野党第1党の民進党は離党ドミノで弱体化しているのを好機と見て、安倍晋三首相は国会解散を決めました。<br />
  409. ところが、思いがけなく小池百合子・東京都知事の新党が登場し、そこに民進党が合流することになって、いきなり自民党は政局の主導権を奪われてしまった。<br />
  410. しかし、個人的にはこのカオス的状況を歓迎する気分にはなれません。<br />
  411. 民進党の議員たちはこれまで主張してきた「安保法制反対・改憲反対」を棄てて180度逆の立場に立たなければ公認されないという「踏み絵」を踏まされようとしています。新党は反立憲・独裁志向の安倍自民党のさらに右に、自民党以上に新自由主義的で排外主義的な新政党が「受け皿」として登場しようとしている。<br />
  412. ただし、これは世界的な傾向であって、日本だけの特殊事情ではありません。世界中どこの国でも、「理解も共感も絶した他者との気まずい共生」という困難な道を拒絶して、仲間うちだけで固まり、仲間うちの利益だけを優先する「身内ファースト」的な政治勢力が大衆的な支持を得つつあります。英国のEU離脱も、トランプ大統領の登場も、ドイツ連邦議会でのAfDの進出も、希望の党も同じ文脈の中の出来事だと私は解釈しています。<br />
  413. これは現に起きつつある地殻変動的な変化が理解できず、対応することもできないおのれの無能と不安ゆえの退行的な選択であって、外界の出来事に目を閉じ、耳を塞いで、「変化なんか起きてない」と自分に言い聞かせているに過ぎません。ですから、遠からずあまりに変化の速い状況に追い抜かれ、押し寄せる難問に対処できずに、その無能をさらすことになるでしょう。<br />
  414. ここでいう「地殻変動的な変化」というのは、国際政治における超覇権国家の衰退と「地域帝国化」、そして地球的規模での人口減のことです。<br />
  415. 地域帝国化は半世紀スパンでの変化ですから、今すぐどうしなければならないというような喫緊の課題ではありませんが、少子・高齢化による社会の変化はすでに日本を直撃しています。21世紀末には人口は5千万人程度にまで減ると推定されています。80年間で7千万人減です。人口減と高齢化に伴う産業構造・社会制度の変化は想像を絶した規模のものになるはずですが、それにどう備えるかという危機感は国民的にはほとんど共有されていません。政府もまったくの無策で手をつかねている。<br />
  416. その危機の切迫のうちにありながら、安倍政権は森友・加計問題に露出したようにネポティズム(縁故主義)にすがりついています。イエスマンだけを登用し、限られた国民資源を仲間うちに優先的に分配する仕組みです。これは「身内ファースト」という世界的なスケールでの政治的退廃の日本版です。安倍首相がもともとそういう排他的なパーソナリティであるということと世界史的なネポティズム傾向があいまってこれまでの長期政権がありえたのです。<br />
  417. しかし、安倍自民党に対抗して登場した小池新党も、「身内ファースト」であることに変わりはありません。民進党との「合流」プロセスで見られたどたばた騒ぎで明らかなように、小池代表の軍門に下ったのは、政策の一貫性を振り捨てても「わが議席」の確保を優先させていてる「自分ファースト」の人たちばかりでした。これまで掲げて来た政策の一貫性や論理性よりも、おのれの「明日の米びつ」を優先的に配慮する政治家たちが、今切迫しつつある文明史的な転換に対応できる能力があると私は考えません。<br />
  418. 日本はしばらくカオス的状況が続くでしょう。でも、それは世界中どこの国でも程度の差はあれ同じことです。「他の国もひどいことになっている」と言われて心がなごむというものではありませんが。</p>]]>
  419.      
  420.   </content>
  421. </entry>
  422. <entry>
  423.   <title>奉祝「エイリアン・コヴェナント」封切り</title>
  424.   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2017/10/01_1139.php" />
  425.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1829</id>
  426.  
  427.   <published>2017-10-01T02:39:44Z</published>
  428.   <updated>2017-10-01T15:34:37Z</updated>
  429.  
  430.   <summary>リドリー・スコットの『エイリアン・コヴェナント』がいよいよ公開される。 20年く...</summary>
  431.   <author>
  432.      <name></name>
  433.      
  434.   </author>
  435.  
  436.  
  437.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  438.      <![CDATA[<p>リドリー・スコットの『エイリアン・コヴェナント』がいよいよ公開される。<br />
  439. 20年くらい前に、『エイリアン』をネタにした映画論とフェミニズム論をいくつか書いた。昔のHPに公開されていたが、今はもうリンクが切れてしまっているので、ネットでは読めなくなった。筐底から引き出して埃をはらってネット上で公開する。何かのコンピレーションに収録されて活字化されたと思っていたが、『映画の構造分析』にも『うほほいシネクラブ』にも収めていなかったので勘違いかもしれない。<br />
  440. 最初の『エイリアン・フェミニズム』は1996年に神戸女学院大学の紀要に書いた論文である。『ジェンダー/ハイブリッド/モンスター』はその2,3年後にやはり紀要に書いた。その頃は紀要しか掲載する媒体がなく、「読む人は5人」と言われる学内紀要にたくさん論文を書いていた。大半はその後活字化されて本で読むことができるようになったから、なんでも書いておくものである。<br />
  441. 元ゼミ生のreif君によるとWikipediaの「エイリアン」の項にはこの論文からの引用があるそうである。「エイリアン」解釈の一つの定説として評価されているのだとしたら、これほどうれしいことはない。<br />
  442. それにしても20年経つと、90年代というのがいかにフェミニズムが思想的に強い時代だったかよくわかる。私はこの時期ほとんど孤軍奮闘でフェミニズムの「検閲」的体質を批判していたのだが、今読むとなんだか空中楼閣を相手に戦っていたような気がする。</p>
  443.  
  444. <p>(管理人追記:html 再作成しました。なんと、スマートフォンで快適にご覧いただけます→<a href="http://movie.tatsuru.com/alien.html">エイリアン・フェミニズム</a>)</p>
  445.  
  446. <p><strong>『エイリアン・フェミニズム-欲望の表象』</strong></p>
  447.  
  448. <p>世界は書物を介して語られることがなければ、<br />
  449. それほど真実味にあふれたものではないだろう。<br />
  450. ピエール・マシュレ</p>
  451.  
  452. <p><br />
  453. 1・ 《屋根の上の赤ん坊》</p>
  454.  
  455. <p> ある若い夫婦が生まれたばかりの赤ん坊をベビー・ベッドにのせてドライブにでかけた。途中で車がオーヴァーヒートしたので、夫婦は車を止めてエンジンを冷やすことにした。少しでも涼しいようにと赤ん坊はベビー・ベッドごと車の屋根に乗せた。そのうち若い夫婦は言い争いを始めた。エンジンが冷え、車が走り出してもまだ車内では怒鳴り合いが続いた。そのうちに二人はふとさきほどから赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついた……。<br />
  456.  「友だちから聞いた本当の話」という枕を振って始まるこの種の「奇譚」を社会学は「都市伝説」(urban legend)と呼ぶ。J.H.ブルンヴァンはその都市伝説研究の中で、この「屋根の上の赤ん坊」のヴァリエーションが全米にひろがっていることを確認している。(1)<br />
  457.  「屋根の上の赤ん坊」は、若くして子供を持ってしまったため、身の丈にあわない社会的責任を押しつけられることになった若い夫婦の心にきざした不意の殺意に触れている。ストレスフルな育児のさなかに「この子さえいなければ……」という悪意の訪れを経験したことのある親は少なくないはずだ。しかしその欲望を意識することには強い禁忌が働いている。欲望がありながら、倫理や慣習がそれを意識し表現することを固く禁じているとき、ひとはその欲望が書き込まれた「物語」を必要とする。都市伝説はそのような欲望が要請した物語群である。<br />
  458.  この都市伝説は「完全に伝統的な民話の要素―お粗末な親、捨てられた赤ん坊、奇跡的な救出―から成り立っている。そしてすぐれた民話がすべてそうであるように、われわれのきわめて根源的な情を揺さぶると同時に、ある特定の時代・場所における関心事と不安を反映している」(2)とハロルド・シェクターは書いている。<br />
  459.  <br />
  460.  アカデミー賞二部門にノミネートされ、主演のマコーレー・カルキンを一躍スターダムに押し上げた1990年の大ヒット映画『ホームアローン』Home alone はクリスマス休暇にパリへでかける大家族が、末っ子をうっかり家に置いてきてしまうという「意外」な設定から始まるが、このプロットは実は「子捨て」民話の元型を忠実になぞっている。<br />
  461.  映画のハイライトは、パリ行きの飛行機の中で母親が「何かを忘れたような気がする」と不安にかられて、突然子供を忘れてきたことを思い出す場面であるが、これは「屋根の上の赤ん坊」の「赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついて……」というクライマックスと話型的には同一である。<br />
  462.  「親が子を捨てる」話はヨーロッパの多くの民話に見ることができる。<br />
  463.  ロバート・ダーントンによれば、「子供を捨てるというモチーフは『親指小僧』の農民版にもそのほかの民話にも存在するし、嬰児殺しや幼児虐待も様々な形をとって物語に登場する。ときには両親が子供を追い出して、乞食や泥棒にしてしまうこともある。両親自身が逃亡して、家に残された子供たちが物乞いをして生きるという場合もある」(3)。<br />
  464.  エリザベト・バダンテールによれば、親による(直接的あるいは間接的な)「子殺し」は十九世紀まで良心の咎めなしに行われていた。例えば、一八世紀のフランスでは、母親が手もとで子どもを育てる習慣がなく、多くの幼児は生まれるとすぐに乳母に預けられた。(その数は一七八○年のパリでは、一年間に生まれる二万一千人の乳児のうち一万九千人に及んだ。)(エリザベート・バダンテール、『母性という神話』、鈴木晶訳、筑摩書房、1998年、84頁)里子に出されたものの生存率は低かったが、両親に育てられた幼児も決して安全ではなかった。繰り返し教会が禁止を命じたにもかかわらず、幼い子どもを両親といっしょに寝かすという習慣は根強く、そのために幼児が窒息死するという事例が頻発したし、衛生についての初歩的な注意を母親も乳母も組織的に怠っていた。これは「家族内の子どもの数をふやさないための方法」だったのではないかという疑問をバダンテールは呈している。(同書、92頁)<br />
  465.  しかし、グリム兄弟が民話の採集を始めた一九世紀のはじめ頃から、「愛し合う家族」という近代的な家族概念が定着し始め、「子供を捨てる」話型をストレートに表現することに対する心理的な禁忌が働き始めた。こうして、「実母」は「継母」に書き換えられ、「子捨て」は「親が意図せず、偶然に、きわめて危険な状態に子供を放置してしまう」という屈折した話型を迂回することになった。『ホームアローン』はその意味で『ヘンゼルとグレーテル』の現代ヴァージョンとして解釈することができる。<br />
  466.  <br />
  467.  シェクターによれば、都市伝説は二つの要素から成っている。一つは人類全体に共通する「元型的な空想」あるいは「集合的無意識」である。もう一つは「特定の時代・場所における関心と不安」である。<br />
  468.  「元型的空想」と「歴史的・場所的に条件づけられた不安」とがリンクしてはじめて「ポピュラー」な都市伝説は成立する。そして、そのような都市伝説の機能はなによりも大衆の「抑圧された欲望」に「物語」としての表現を与えることにある。<br />
  469.  シェクターの仮説に基づいて私たちが以下で分析を試みる都市伝説は映画『エイリアン』シリーズ、すなわちリドリー・スコットの『エイリアン』Alien 1979、ジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』Aliens 1986、ディヴィッド・フィンチャーの『エイリアン3』Alien 3 1992、である。(自注:この論考が書かれたのは1996年、まだジャン=ピエール・ジュネの『エイリアン4』Alien: Resurrection 1997は映画化されていなかった)。<br />
  470.  私たちが注目するのは、十三年間三作にわたるこのシリーズをつらぬく「不変の」元型的空想ではなく、むしろ映画を取り囲む社会感受性の「変化」である。</p>
  471.  
  472. <p> 『エイリアン』を構成している「元型的な空想」は「体内の蛇」という古典的話型である。次章で考察するが、その話型の意味するところを理解するのは難しい仕事ではない。しかし、私たちの「根源的な情を揺さぶる」その元型的話型が、ときどきの社会的感受性の変化に対応して、どのような現代的な恐怖譚に「書き換えられている」のかを特定することは、それほどには容易ではない。<br />
  473.  私たちはここでのシェクターの言う「歴史的・場所的に条件づけられた不安」は、アメリカにおける女性の社会的役割の変化によってもたらされたと考えている。このいささか唐突な着想の妥当性を論証するためには少なからぬ頁数が必要であるだろう。<br />
  474.  私たちはこの映画が、一九七○年代から九○年代のアメリカのフェミニズム・ムーヴメントの中で急速にその相貌を変容させてゆく女たちと、急変してゆく社会に対してアメリカの男たちが抱いた「関心と不安」を的確に映し出していると思う。そして、この「関心と不安」に培われた「欲望」がどのようにしてこの血なまぐさい物語群のうちに繰り返し回帰することになったのか、それをあきらかにして行きたいと思う。</p>
  475.  
  476. <p><br />
  477. 2・《体内の蛇》</p>
  478.  
  479. <p> 「体内の蛇」はひろく世界に分布した都市伝説元型の一つである。最も古いヴァージョンは16世紀に遡るというこの伝説の基本的なプロットは次のようなものである。<br />
  480.  不用意な行動(蛇の精液のついたクレソンを食べる。湖で泳いでいるときに蛙の卵を呑み込む。池のほとりで口をあけて昼寝をする)のせいで蛇(場合によっては蛙、山椒魚、蜥蜴)が人間の体の中に入ってしまう。蛇はそのまま体内で成長し、そしてあるとき食べ物の匂いにつられて食事中に喉を遡って口から出てくる。この最後の場面はしばしば人間に致命的なダメージを与える。<br />
  481.  よく知られたヴァリエーションの一つに1916年頃にイギリスでひろまった「蛙を呑み込んだ婦人」の話がある。蛙の卵を呑み込んでしまった婦人の胃の中で蛙が成長する。苦しくてたまらないが、蛙が動き回るので手術ができない。最後に思い余って婦人の舌にチーズを一切れのせたら、蛙がその匂いにつられて食道をのぼってきた。しかしそのために婦人は窒息死してしまう。<br />
  482.  リドリー・スコット監督の第一作『エイリアン』の衝撃的シーンはこの古典的都市伝説を忠実になぞっている。<br />
  483.  宇宙船ノストロモ号の7人の乗組員は地球への帰路、意味不明の信号を傍受して、発信地の星に降り立つ。そこで探検に出た乗組員たちは朽ちた宇宙船と化石化したエイリアンと無数の卵を発見する。一人の隊員が卵を調べようとしてかがみ込んだときに、卵の口が開いて中から異星人の幼体が跳び出し、彼の顔面にはりついてしまう。蜥蜴の尻尾を持つ蟹に似たこの幼体(Face Hugger)は意識を失った寄生主とともに宇宙船に入り込む。フェイス・ハガーは顔にはりついているだけでなく、体内に深く触手を挿入しながら、酸素を送り込んで寄生主を殺さないようにして一種の共生関係を作り出している。船長とサイエンス・オフィサーが電気メスではがそうとするが、フェイス・ハガーの傷口から流れ出る強い酸によって宇宙船の船体そのものが浸食され、それ以上手を出すことができない。<br />
  484.  やがてフェイス・ハガーは顔から自然に剥離し、枯死する。隊員は意識を回復する。回復を祝って食事が始まり、彼は猛然たる食欲を示すが、突然、強烈な腹痛のために痙攣し始める。そして全員におさえつけられた彼の腹を喰い破って第二段階への形態変化を遂げた蛇状のエイリアンが出現し、返り血を浴びて呆然としている乗組員を嘲笑うかのように奇声を発して姿を消す。<br />
  485.  映画を見たひとたちの多くが「最も衝撃的」としているこのエピソードはごらんのとおり、「体内の蛇」のモチーフをそのままに再現している。<br />
  486.  はじめに「不注意な行為」(「卵」に顔を近づける)があり、その結果「卵」が体内に送り込まれる。手術の試みは失敗し、最後に「食事の匂いにつられて」「蛇」が出現し、犠牲者は死ぬ。<br />
  487.  この元型的想像が何を象徴しているのかを推察することはそれほどむずかしい仕事ではない。<br />
  488.  体内に「蛇」の「卵」が入り込み、成長し、宿主の腹を膨らまし、最後に腹を破って出てきて、宿主を死に至らしめるという話型は、「蛇」が精神分析的に何を意味するかというようなことを詮索しなくても、「妊娠と出産」のメタファーであることは誰にも分かる。<br />
  489.  女性の意に反して(多くは「不注意」から)、男性という異物の「卵」(精液)がその体内に入り込む。それは成長し、腹を膨らませて母体を苦しめ、あげくに彼女に最初に暴力的に侵入した「蛇」のコピーを再生産させて、彼女を「殺す」。<br />
  490.  この元型説話は「生殖」という女性の生物学的宿命そのものに対する恐怖と嫌悪を表している。「母」とはどのように神話的に脚色しようと、つきるところ「男」が自己複製をつくるための「道具」にすぎないとこの物語は教えているのである。<br />
  491.  生殖に対する恐怖と嫌悪をあらわに示し、男性の自己複製の道具となることを拒絶することがきびしく禁圧されるとき、無意識の領域に追放された欲望は必ず「物語」を迂回して「検閲の番人」の監視をくぐり抜け、意識の表層へと回帰してくる。そのようにして「体内の蛇」の話型は誕生し、語り継がれてきたのである。<br />
  492.  リドリー・スコットが伝承的な話型を意識的に採用したのか、それとも「恐ろしいエピソード」を求めているうちに、無意識的に古典的な恐怖譚に回帰してしまったのか私たちには判定できない。しかしすぐれたストーリー・テラーは自分の個人的な無意識を集合的無意識と通底させる才能に恵まれている。<br />
  493.  その時代の観客が見たがっているもの(しかし抑圧されているもの)を感知するために必要なのは、無意識的な共感能力である。スコットがここで映像的に同調しようと試み、そしてそれに成功したのは1970年代末におけるアメリカ社会の、性関係にかかわる集合的無意識である。</p>
  494.  
  495. <p><br />
  496. 3・《性関係と映像》</p>
  497.  
  498. <p> 70年代のアメリカ映画に顕著に現れた一つの傾向について、フェミニズムの立場からE.アン・カプランはこう書いている。</p>
  499.  
  500. <p> 「70年代の終わりになると、もう一つの傾向が商業映画の主流に現れた。それははっきりと女性を観客対象とし、フェミニズム運動が提起した問題をとりあげようとする動きである。(…)これらの映画の内容を提供したのは、映画をとりまく社会的・経済的・文化的な要因である。すなわち女性の教育や雇用問題に生じた顕著な変化、女性解放運動や避妊の方法の普及がもたらした性関係・性意識の変化、そして結婚と離婚のあり方の変化、などである。(…)これらの映画は、女性の新しいあり方を受け入れる用意のまだできていない父権社会で、新しい役割を果たしはじめた女性たちが直面する問題、彼女たちの矛盾にみちた要求をとりあげ、描こうとしている」(4)。</p>
  501.  
  502. <p> これらのハリウッド映画に共通するのは、「新しい女性」たちが、当然ながら彼女のあり方を認めようとしない「父権制社会」の執拗な暴力にさらされるという状況設定である。<br />
  503.  女性の自立を阻止せんとする男性側からの暴力をリアルに描くのは、ある意味では「父権社会」の醜悪さを暴露するという「教化的」効果を持つだろう。<br />
  504.  70年代末のアメリカ映画は「よい意味では女性の要求をとり入れ、悪い意味でそれを懐柔する方向に動きだした」とカプランは認識している。<br />
  505.  79年作品である『エイリアン』は主人公にアグレッシヴな顎とボーイッシュで巨大な体躯の持ち主である新人女優シガニー・ウィーヴァーを起用した。それまでのハリウッド・スターのカテゴリーにはあきらかに収まらないこの女優は、「新しい女性」を描こうとする制作者の期待に応えて、フェミニズム興隆期におけるアメリカの若い女性たちの上昇的なはりつめた気運をみごとに表現してみせた。<br />
  506.  彼女の演じる宇宙飛行士リプリーは、その職責を誠実につとめ、つねに男性隊員に伍して労働し、パニックになっても冷静さを失わず、適切な仕方でエイリアンとの闘争を指揮し、結果的にただ一人の生存者として勝ち残る。この映画は女性主人公が、襲いかかる暴力に対して、男性保護者に依存することなく、また「女性的」奸智を駆使することもなく、ストレートな暴力にストレートな暴力を以て対処し勝利するという、ハリウッド映画にとって画期的なプロットを提供した。<br />
  507.  白馬の王子様の到来を待たず、自力で城を奪還する闘う「眠れる森の美女」。(最後の闘いのときリプリーが身にまとう宇宙服は騎士の鎧を象っている。)女性の自立を映像的にサポートするという点について言えば、『エイリアン』はたしかに「よい意味では女性の要求をとり入れ」た映画であると言えるだろう。<br />
  508.  しかし、「父権制社会」の剥き出しの暴力にさらされて戦うヒロインを描くことは、見方を逆にすれば、「父権制社会」に楯突く「生意気な」ヒロインが、父権制的な暴力にひたすら暴行され、凌辱され、その無謀な野心にふさわしい制裁を受ける映像を描くことでもある。<br />
  509.  全編が暗くじめついた宇宙船の中で展開する「ドラゴン&ドンジョン」型RPGにも似たこの武闘劇は、そのような意味では、フェミニズムへの応援歌にしては、あまりにも暗い情念をはびこらせている。おそらくそれは戦う「新しい女性」の不安と、それに脅威を感じている男性の不安の双方を投影した結果である。70年代末のアメリカ社会の性関係の未来に対する不安が全編を領している。そしてその不安の映像的な焦点となっているのが「体内の蛇」である。</p>
  510.  
  511. <p> 私たちはさきに「体内の蛇」の物語は、女性からする、「男性の自己複製の道具であることの拒絶」、つまり「妊娠と生殖への無意識的な忌避の欲望」の吐露であると書いた。だとすれば、フェミニズム映画としての『エイリアン』もまた「女性としての伝統的な社会的役割の拒絶」のメッセージを発信しているはずである。<br />
  512.  事実、『エイリアン』においてリプリーはよかれあしかれほとんど伝統的な女性の徴候を示さない。彼女は女性的コケットリーによって船内の雰囲気をやわらげようともしないし、男性隊員にコーヒーをいれもしないし、無原則な包容力も示さないし、男性隊員の誰に対してもいかなる性的な関心も示さない。リプリーはただ男たちと同じように不機嫌な顔で黙々とコーヒーを飲み、煙草を吸い、自分の仕事をするだけだ。エイリアンをダクトに追いつめるという危険な任務にも、当然のことのように志願するし、船長の死後は序列に従って指揮官となる。彼女は女性であることをいかなる免責事由にも用いない、女性であることからいかなる利益をも受けていない。<br />
  513.  ではリプリーは完全にニュートラルな存在として描かれているのかと言えば、決してそうではない。彼女はこの映画の中で二回「女性的」弱点を見せる。</p>
  514.  
  515. <p> 一回目はエイリアンを生きたまま持ち帰れという《会社》の指示に従って、乗組員を犠牲にしてもエイリアンを「保護」しようと企てるサイエンス・オフィサーのアッシュによって暴行を受ける場面。ここでリプリーは映画の中でただ一度だけ男性のすさまじい暴力に屈服する。<br />
  516.  見落としてはらない徴候は、このときアッシュが彼女を窒息させようとして、口の中に丸めた雑誌をねじ込もうとすることである。乱闘が行われるのは船内の食堂で、押し倒されたリプリーの後ろの壁には『プレイボーイ』風のヌード・ピンナップが貼りめぐらされている。アッシュは手近の男性誌をつかんで、それをリプリーの口にむりやり押し込む。<br />
  517.  丸めた雑誌を口に押し込むというのは、どう考えても窒息死させるために有効な方法ではない。これはむしろ象徴的に解釈されるべきだろう。あらゆる場面で女性らしくふるまうことを忌避しているかに映るリプリーに対して、ここで男性側からの「制裁」が加えられるのだ。<br />
  518.  丸められた男性雑誌は、50年代まではアメリカ男性の誰ひとりとしてその正当性を疑うことのなかった「女性を男性の性的愛玩物として消費する文化」を象徴している。リプリーが映画の中で一貫して踏みにじってきたのがこの時代遅れの性幻想であるとすれば、「男性」によって彼女の「口に挿入された」「男性誌」がその「父権的文化」の報復のかたちであることはほとんど論理的に自明である。(『エイリアン2』においても、《会社》の指示に従わないリプリーを黙らせるために、《会社》の代理人であるバークによって彼女の「口」に「凶器」が挿入される。いずれの場合も《会社》の大がかりな企業戦略を「告発」しようとするリプリーの「口」は擬似的なファルスによって封じられるのだ。)<br />
  519.  もう一つの彼女の女性的徴候は、母船を爆破して脱出するという最後の場面でリプリーが猫を探しに行くという致命的なミスを犯すエピソードに見られる。<br />
  520.  リプリーはここで映画の中でただ一度だけ情緒的弱みを見せる。爆破まで残り数分というせっぱ詰まった状態で、生き残った他の二人の乗組員が脱出に必要な酸素を荷積みするという緊急な作業に携わっている間、彼女は「猫を探している」のだ。<br />
  521.  「猫探し」に手間取ったためにリプリーは仲間二人の救出に間に合わず、脱出用シャトルにエイリアンが乗り込む時間的余裕を与えてしまう。それほどのリスクを冒してまで、リプリーは「猫探し」のために船室をはいまわり、みつけた猫を熱情的に抱き締める。いったいなぜ猫はこの局面でそれほどまでにリプリーを引きつけるのか?仲間と自分自身を危険にさらすどのような価値が猫にはあるのか?<br />
  522.  英語話者ならすぐに気づくことだが、「猫」(pussy)は俗語で女性性器を意味する。「忘れてきた「猫」を探しに戻る」という話型は、それまであえて忌避してきた女性性が、決定的局面に臨んだときにいたって、実は「かけがえのないもの」であったことにリプリーが気づいたことを意味している。「猫」は女性がいかに逃れようと望んでも決して逃れることのできない「セクシュアリティ」の記号である。<br />
  523.  ここでもまた映画はアッシュの暴行と同じメッセージを発信している。<br />
  524.  いかに女性性を拒もうとも、「決定的局面」に至れば、女性は「女であること」からは逃れられない。そして彼女が「女でしかない」ことを暴露するとき、「男の暴力」の前に屈服する他ないのである。</p>
  525.  
  526. <p>4・《母性の復権》</p>
  527.  
  528. <p> カプランはさきの書物でハリウッドを「ブルジョワ機構」と規定し、そこで生産される映画は「男性的利益」にもっぱら奉仕するものであって、女性に「どんな主張も可能性も欲望の充足も許さない制度」の中に彼女たちを幽閉するためだけに機能しているというかなり一面的なきめつけを行っている(5)。<br />
  529.  しかし、それでは現に女性観客がハリウッド映画に熱狂していることについて納得のゆく説明ができないだろう。映画はカプランが考えているほどに単純なものではない。(カプランがアメリカ映画について言うように、あるいはジュディス・フェッタリーがアメリカ文学について言うように、それらすべてが単なる「父権制イデオロギーのプロパガンダ」にすぎないのなら、彼女たちがなすべき緊急のことは、映画や文学「について語ること」ではなく、アメリカにおける映画や文学の生産と消費をただちに「禁止する」ことであろう。しかし、彼女たちもその禁止運動がアメリカ女性のマジョリティの支持を得る見通しがないことは分かっているのである。)<br />
  530.  実際には、大衆的な支持を集める映画はつねにアンビヴァレントな映画である。あるレヴェルで語られていることと、別のレヴェルで語られていることが平然と矛盾している、そのような映画にだけ、私たちは惹きつけられる。すぐれた物語は、ある水準における言語的メッセージは、必ず別の水準における非言語的メッセージによって「否定」される。<br />
  531.  敵役が十分に魅力的でなければ主人公の勝利は高揚感をもたらさない。流血の惨事がなくては平和の価値は分からない。戦争の悲惨さを伝えるためには戦争から快楽を得ている人間が描かれねばならない。世界が錯綜していること、あるものの快楽は別のものの不幸と背中合わせになっていること、私たちを惹きつける物語は、つねにそのような仕方で重層的である。<br />
  532.  『エイリアン』は「私たちを惹きつける物語」に必要なアンビヴァレントな構造を備えている。あるレヴェルで見ると、映画は七〇年代の女性観客に対して、新しいヒロインの誕生を告げ、女性の未来についての希望を語っているかに見える。しかし、別のレヴェルでは、その女性たちに対する「父権制社会」の側からの剥き出しの攻撃性が映像的に誇示されている。女性が「ドラゴン」と闘う話型は「フェミニズムを懐柔する」。他方「女性が女性的でなくなること」によって受ける制裁を映像的に飽食させることによって映像は「父権制的観客」の邪悪な欲望をも満たしている。『エイリアン』はその時代の欲望と不安をそのような仕方で映像的に定着することによって大きな商業的成功を収めた。</p>
  533.  
  534. <p> 『エイリアン2』は七年後の一九八六年に製作されたその続編である。この映画はその時代におけるフェミニズムの最大のトピックであった「母性」の評価についての同じくアンビヴァレントな社会的感受性を映像化して大きな成功を収めた。<br />
  535.  『エイリアン2』は前作の五七年後の未来が舞台となる。ノストロモ号最後の生存者リプリーは長い宇宙漂流の果てサルヴェージ・シップに救助される。《会社》はエイリアン襲撃という彼女の説明を受け入れず、彼女は飛行士の資格を剥奪され、身寄りも知人も死に絶えた未来社会で、肉体労働者として、夜毎エイリアンが自分の腹を喰い破って出現する悪夢にうなされながら暮らす。<br />
  536.  《会社》はエイリアンの卵が発見された星に宇宙植民地を建設していた。その植民地星が不意に通信途絶し、リプリーはアドヴァイザーとして宇宙海兵隊とともにその星を訪れることになる。<br />
  537.  植民地星ではひとりの少女をのぞいて植民者全員がエイリアンの卵を産み付けられた「フェイス・ハガー」の培養体に化しており、海兵隊もたちまち壊滅の危地に追い込まれる。再びエイリアンとの闘いを強いられたリプリーは、とらえられた少女を救出するために、無数の卵を生み続ける「女王エイリアン」にフル武装で対決する……。</p>
  538.  
  539. <p> この映画は母性についての対立する二つの対抗的な話型を繰り返す。<br />
  540.  劇場版ではカットされ、ディレクターズ・カットで回復した挿話によれば、リプリーには一人の娘がある。娘はリプリーが宇宙を漂流している間に六六歳で死んでいる。リプリーは「外で働いていたために」自分のただ一人の子供の人生に全くかかわることができなかったわけである。これは「母性が十全な機能を果たさなかった」マイナスの徴候と見なすことができる。<br />
  541.  一方、リプリーは植民地星で奇跡的に生き残った少女ニュートに強い母性的感情を抱く。エイリアンの襲撃からのただ一人の生存者であり、恐怖の経験を共有していることが二人を深く結びつける。リプリーとニュートの擬似的母子関係を描く場面で、リプリーは前作では「猫」に対してのみ示した情緒的な「甘い」表情を見せる。彼女がさまざまな危機からニュートを守り、最後に命がけでニュートを救出に敵地に乗り込むシーンがこの映画のハイライトだが、そこで高らかに歌われるのは「母の愛は海よりも深い」そして「母は強し」というほとんどメロドラマ的なメッセージである。<br />
  542.  これは、「子供を家に残して外へ働きに出て自己実現したい」という自立を求める気分と、「子供の保護をすべてに優先したい」という気分のあいだに引き裂かれて、いずれとも決めかねている八○年代アメリカ女性の内的葛藤をみごとに映し出している。<br />
  543.  そして、最終的に映画のストーリーラインは「子供を見捨てる」女性は罰を受け、「子供を守る」女性は報われるという、どちらかと言えばやや懐古的な母子関係に与しているかに見える。<br />
  544.  しかし母性の評価にかかわる映像記号はそれほど単純ではない。いま論じたのとは違うレヴェルにおいて、つまりリプリーと「女王エイリアン」の対立においては別様の「母子の物語」が語られているからである。<br />
  545.  巨大な「女王エイリアン」は植民地星の地下深くに営巣し、ひたすら卵を排出し続けるだけの生殖機械である。「女王」と遭遇したリプリーは火炎放射器で卵を残らず焼き払う。しかし「女王」は産卵管に繋縛されているために身動きならず、卵が破壊されるのを傍観するばかりで、それを阻止することができない。<br />
  546.  生殖に専念したために結果的に種族に壊滅的な被害が及ぶのを阻止できなかった「女王」。「家」に閉じこもって「育児」に専念していたために社会的能力を失ってしまった「母」。これは「過大評価された母子関係の否定的側面」を意味するだろう。<br />
  547.  産卵という任務から子供たちの死によって解放された「女王」は、ただ一人で侵略者リプリーと闘う。映画の最終場面で二人の「母」は一対一で激突することになるのだが、結果的には肉体労働の経験によって宇宙船内の機材の運用に習熟したリプリーが「女王」を船外に叩き出して勝負を決する。社会的スキルに習熟していない母性はここでも「働く女性」の前に一敗地にまみれる。<br />
  548.  表層における「母性賛歌」とはかなり矛盾する映像的なメッセージがここには盛り込まれていることが分かる。<br />
  549.  映画の中の母子関係とその記号的意味をもう一度図表化してみよう。<br />
  550. (1)「外で働いていたために、娘の死に目に会えなかった母親」であるリプリーは「母が外に働きに出て死んだために、ひとり放置された娘」であるニュートと擬似的な母子関係をもつ。(この説話群のメッセージは「母親が子どもを置いて外へ働きにでると、母子はともに孤独になる」である。)<br />
  551. (2)ニュートの墜落によって、リプリーたちは無用な危険を冒すことを強いられる。卵はエイリアンたちの集団の《弱い環》であり、産卵のために母親は身動きできず、そのため女王は焼死の危険にさらされる」。(この説話群のメッセージは「母子関係が緊密であると、母親は無用の危険に身をさらすことになる」である。)<br />
  552. (3)「娘の救出のためにリプリーは例外的に高度の戦闘力を発揮する」。「死んだ卵の報復のために女王は例外的に高度の戦闘力を発揮する」。(この説話群のメッセージは「母子関係が切り離されると、母親の戦闘能力は向上する」である。)<br />
  553. (4)「社会的スキルの運用に習熟したリプリー」が「情緒的に暴れ回る女王エイリアン」に勝利する。(この説話のメッセージは「外で働く母親は子供を幸福にする」である。)<br />
  554.  映像の記号はごらんの通り、さまざまな矛盾するメッセージを発信している。とはいえそれらのメッセージは均等に配分されているわけではない。劇場公開版においては、さきに述べたようにリプリーに娘がいたエピソードがカットされているばかりでなく、ニュートの両親が宇宙船探検にでかけてエイリアンを発見し、植民地星の全滅の要因を作るという部分もカットされている。つまり「外で働く母親は子供を幸福にしない」という説話的メッセージは「商業的な理由で」集中的に削除されているのである。(市場原理はつねに無意識的な淘汰圧として機能する。)<br />
  555.  一方、「母子関係が緊密であると、母親は危地に追い込まれる」というメッセージは「ニュートを寝かしつけるために添い寝しているうちにエイリアンの侵入を許してしまう」挿話や「ニュートが足を踏み外したために脱出のチャンスを逸する」挿話で執拗に強調される。<br />
  556.  そして「母子の別れ」は悲劇性を払拭され、むしろ劇的興奮を盛り上げるサスペンスとして功利的に活用される。「母子が密着していること」よりも「母子が離ればなれでいること」の方が生産的であり、母の能力開発にプラスであり、それが最終的には子どもの利益となるのだ、というメッセージが声高に叫ばれる。かくして、「外で働く女性」リプリーが「出産育児の専門家」である女王エイリアンを叩き潰して映画は終わる。<br />
  557.  ロビン・ロバートはこの映画が「二つの母性の葛藤」であることを正しく指摘した上で、これが「明確にフェミニズム的な映画」であると賞賛している。</p>
  558.  
  559. <p> 「キャメロンとハードによって提出された母性のヴィジョンは、確かに、女性の可能性を示し、母性の選択という新しい方法の実践によって、生物学から解放された女性のヴィジョンを示しているのである」(6)。</p>
  560.  
  561. <p> ロバートはエイリアンが象徴する「生物学的母性」とリプリー=ニュートの体現する「養子型母性」の葛藤のドラマとして映画を解釈し、後者のうちにフェミニズムの希望を見いだしている。<br />
  562.  『エイリアン2』が「対等なパートナーシップ」に基づいた「新しい母性の定式化」に成功したというロバートの結論は同意しがたいけれども、この映画が「仕事をしようか、それとも子どもと家庭にとどまろうか」逡巡していた八〇年代のアメリカ女性たちに向けて、「母親が仕事をすればするほど子どもは幸福になる」というたいへん耳に快いメッセージを送ったことは間違いがない。</p>
  563.  
  564. <p>5・《憎悪の映像》</p>
  565.  
  566. <p> 法規範と言語に象徴される父権制社会の秩序を脅かす「おぞましきもの」としてジュリア・クリステヴァは「女性的なもの」を定義した。</p>
  567.  
  568. <p> 「われわれが《女性的なもの》という言葉によって指示するのは、生来の本質といったものではなく、名をもたぬ《他者》である」。それは「三角形を形成する父による禁止の機能を突き抜けた果ての、命名しえない一個の他者性」である(7)。</p>
  569.  
  570. <p> 命名しえぬもの、象徴界に穿たれた根源的喪失、コーラ、ル・セミオティック、「文化という象徴的な構造に対する、言葉で表現できない絶大な自然の力」……ラカン的なジャルゴンで飾られたクリステヴァの「女性性」論は、第三世界論やマイノリティ論とシンクロナイズするかたちで七〇-九〇年代のフェミニズムに鋭利な理論的武器を提供してきた。しかし、この理論はややもすると通俗的な「母性」主義に再利用されかねない危険をはらんでいる。<br />
  571.  もしクリステヴァが言うように、母性がそれほどに父権制秩序を紊乱する潜在的な力を秘めているのであれば、父権制社会の転覆のためには、キャリア・ウーマンとなって男性に伍してばりばり働くより、家で子供との間に濃厚な情念的関係をはぐくんでいる方が有効であることになってしまうからである。<br />
  572.  そのような母性主導的環境に育った男の子たちがうち揃って「セリーヌ=アルトー」的な人格形成(崩壊?)を遂げたら、なるほど父権制社会はがらがらと崩壊するだろう。しかしそれは父権制社会の崩壊というより、「市民社会そのもの」の崩壊を意味するのではあるまいか?市民社会そのものが消滅することによって、女性たちはどんな利益を得ることができるのだろう?<br />
  573.  市民社会の消滅は望まないが、母性的なものの復権は望むということだとすると、それは要するに「父権制社会のサブシステムとして母性的なものを認知して欲しい」ということにすぎないのではないのか?母性的なものはただ「父権制」と葛藤することによってはじめて生成的なものとして機能するというのなら、母性的なものは、結局、「パートナー」としての父権制の永続を願うようにはならないのだろうか? <br />
  574.  これがフェミニズム本質主義に対する、ラディカルな反問のかたちである。 <br />
  575. モダン的な父権制イデオロギーを一蹴したあとのアメリカ・フェミニズムの次なる闘いは「実体化された女性性」という差異派フェミニズム思想の掃討戦であった。<br />
  576.  「多産な母」「自然な母」「地母神」的女性性、「アップル・パイと日向のにおいのするママ」の神話が一掃されなければならない。<br />
  577.  ロバートによれば、クリステヴァ的な母性(「象徴秩序の外に位置して」おり、「前言語的段階を表象する」母)は『エイリアン2』では「女王エイリアン」によって演じられている。リプリーはそれを殺すことによって近代的な意味での「女性性」の息の根を止めたことになる。<br />
  578.  「生殖」という行為に集約的に象徴される生物学的女性性に対するこの明確な否定が、八十年代中期以降のフェミニズムの新しい思潮を反映している。</p>
  579.  
  580. <p> 「女性を束縛しているのは、まさに彼女たちの〈女性性〉である(……)。だいたい、女性〈である〉などという状態じたいが、ほんらい存在してはいないのだ。それは性科学的言説や社会活動における論争史によって構築された複合カテゴリーにすぎない」(8)。</p>
  581.  
  582. <p> 〈サイボーグ・フェミニスト〉ダナ・ハラウェイは一九八五年にそう書いた。</p>
  583.  
  584. <p> 「サイボーグとは、解体と再構築をくりかえすポスト・モダンな集合的・個人的主体(セルフ)のかたちだ。これこそフェミニストたちがコード化しなければならない主体のありかたなのである」(9)。</p>
  585.  
  586. <p> 女性性を実体めかして語るというみぶりそのものが、父権制のサブシステムとして機能している以上、女性性、アブジェクシオン、ガイネーシス、といった神話的コンセプトを支えにしては父権制は打倒できない。そう自覚する新しいフェミニズム的知見が80年代にこうして登場してきた。映画はそのような社会的感受性のシフトを直観的にとらえている。<br />
  587.  だが「女らしさ」という社会的役割の拒否にとどまらず、「生殖」に象徴される生物学的女性性の拒否にまで踏み込んだ新しいフェミニズムの思潮に、当然のことながらアメリカ男性は深刻な危機感を抱いた。男たちはあらゆる種類の「女らしさ」を「歴史のゴミ箱」にこともなげに放り投げてゆく女たちに対して強い不安と恐怖を感じた。このような男性側の根深い不安とそこから分泌される強烈な悪意を映像的に表象してみせたのが『エイリアン3』である。<br />
  588.  一九九二年のこの第三作は前二作に比べると、あまりに暗く、あまりに希望がない。それは全編にみなぎる「女性嫌悪」(misogyny)の瘴気のためである。<br />
  589.  この映画で女性嫌悪はむろんフェミニストからすぐに指弾されるようなあからさまな仕方では表現されていない。それは隠微な仕方で、フェミニズムを「懐柔」し、それに「迎合」するような話型を通じて表現されている。<br />
  590.  それどころか、ある意味で『エイリアン3』は「フェミニストの理想を描いた映画」であるとさえ言えるかも知れない。なぜなら、そこには伝統的な意味での女性はもう存在しないからだ。この世界の女性はこれまで女性に帰属させられてきたすべての特性を脱ぎ捨て、剥ぎ取られている。「女性であるなどという状態じたいが、存在してはいない」世界、「女性が女性であることを止めた世界」をこの映画は描いているのである。ただし、「悪夢」として。<br />
  591.  映画はようやく脱出に成功した宇宙船が、潜んでいたエイリアンのために《会社》の所有地である囚人星に墜落するところから始まる。墜落で「娘」ニュートも海兵隊最後の生き残りヒックス伍長もアンドロイドのビショップも死ぬ。リプリー自身は冬眠中にエイリアンの卵を産み付けられた身体で一人生き延びてしまう。そして、二五人の性的凶悪犯と二人の看守だけが住む「男だけの星」でリプリーは三度エイリアンと闘うことになる。<br />
  592.  この映画でのリプリーは絶望的なまでに孤立している。彼女にはもはや何もない。守るべき娘はいない。前作における戦友であったヒックスは死に、ビショップは破壊された。宇宙船には近代的な装備があり、エイリアンを吹き飛ばす武器も望めば手に入ったが、この囚人星には斧より他には武器もない。これまでは冷静な判断力や果敢な行動力を備えた男女のサポーターがいたが、囚人星にいるのは性的な重罪犯と無能な看守だけである。<br />
  593.  これまであれほど懸命に闘ってきた女性が迎えるにしてはあまりに過酷な条件だ。しかしこの映画で冷遇されているのはリプリーの戦闘条件だけではない。これまでリプリーが体現してきた「女性性」のすべての指標もまた、この星では猛然たる攻撃にさらされることになる。<br />
  594.  映画は「女性性なるものはあってはならない」というメッセージを繰り返す。<br />
  595.  星に漂着したリプリーに対して所長は「この星は女性的なものが存在してはならない場所である」と告げる。この囚人星に収容されているのは「常習的・遺伝的な性犯罪者たち」である。「生まれついての性的暴力の愛好者たち」だけから構成される社会(これこそ父権制社会そのものだ)を自由に歩き回る女は暴力と災厄をもたらすだろう。じじつ彼女の出現は鎮静していた性幻想を解発し(リプリーは到着後ただちにレイプの洗礼を受ける)、彼女が「連れてきた」エイリアンは男たちをむさぼり喰う。女性の到来が「男たちだけの世界」に災厄をもたらしたのだ。<br />
  596.  映画の冒頭でリプリーは「シラミが多いから」という不自然な理由で髪の毛を刈られて丸坊主にされる。ストーリー上の必然性がないのに、女優がヌードになる映画は数多いが、ストーリー上の必然性がないのに美人女優がスキンヘッドになる映画はたぶんこれが最初だろう。<br />
  597.  女性の造形的な美しさに過剰な価値を賦与するのは父権制社会の特徴である。<br />
  598.  「女は美しくあらねばならない」という威嚇的な要請は、女性を性的対象として眺めている暴力的な視線に裏づけられているとフェミニズム批評は主張してきた。それを拒むこと、わざと自分の生得的な造形的美貌を毀損することは、論理的に言えば、性的対象として賞味され玩弄することを拒絶することである。<br />
  599.  「醜い主演女優」はその意味で画期的だ。女性の造形的な美、鑑賞用の美貌という抑圧的慣習に異議が申し立てられたのだ。もう女性が性的フェティッシュとして男たちのまなざしに捉えられることはない。<br />
  600.  丸刈りの頭、充血した眼、ぼろぼろの囚人服のリプリーは病的な性的犯罪者たちにとってさえ、もうあまり魅力的ではない。それは映画の観客にとっても同じことだ。私たちは彼女が画面に現れない時間をさしたる欠落感なしにやり過ごすことができる。<br />
  601.  映画の開巻に設定されたこの「ストーリー上必然性のない」断髪が暗示するように、この映画の中でヒロインは繰り返し制裁を受ける。髪を切るというのは女性の造形的な美しさに対する暴行である。フランスで対独協力者の女性が戦後髪を刈られた事実が示すように、女性の髪を刈るのは一種処罰的な含意を持っている。父権制社会の強要する「女らしさ」という抑圧的コードを一蹴した女は「失われたコード」の名において処罰されるのである。<br />
  602.  第三作でリプリーはシリーズではじめてセックスをする。<br />
  603.  リプリーは囚人星ただ一人の知識人である医師を相手に選ぶ。ただしこの性行為は、相手の疑念を封じ、相手から必要な情報を引き出すための一種のマヌーヴァーとして行われる。(かつてジェームス・ボンドが敵役の女性を篭絡し、情報を引き出すため性行為を活用したのと同じように。)<br />
  604.  最初に誘うのはリプリーである。彼女は性行為の主導権を握っており、自分の欲望をコントロールしている。相手の医者は性行為を通じてリプリーに対してなんらかの支配力を手に入れるどころか、行為のあとすぐにエイリアンに喰われ、現れたときと同じようにあわただしく消えてしまう。「セックスがすんだら相手が痕跡も残さずに消滅してくれる」のが性行為の主導者にとって一種の理想であるとすれば、これは女性が久しく夢見てきた理想のセックスに他ならない。<br />
  605.  「女らしさ」を拒絶した代償に、ヒロインは「理想の性生活」を手に入れる。情感も物語性も親密さも愉悦もない物理的な「セックス」。<br />
  606.  リプリーはこの映画で「妊娠」する。彼女があれほど憎んできたエイリアンの幼体を身体に寄生させてしまうのである。《会社》の手に体内のエイリアンを渡さないためにリプリーはみずから溶鉱炉に飛び込む。映画は墜落して行くリプリーの腹を喰い破って蛇状のエイリアンの幼体が飛び出し、呱々の声とも断末魔の悲鳴ともつかぬ叫びをあげるところで終わる。<br />
  607.  すでに検証したとおり、「体内の蛇」という『エイリアン』全編をつらぬく話型は「男性のエゴイスティックな自己複製欲望」に屈服することへの嫌悪と恐怖を伝えている。その屈折した感情がエイリアンとの闘争、あるいはエイリアンの卵の焼却といった物語的な迂回をたどって表現されてきたことは述べてきたとおりである。しかし『エイリアン3』において、妊娠と出産はもはや「物語的迂回」を経由することなしに、これ以上はないほどあからさまに「女性に対する性的攻撃とその拒否」として映像化される。<br />
  608.  リプリーは冬眠中に「不注意」から体内にエイリアンの卵を注入されてしまい「妊娠」する。彼女に「自己複製」を託したエイリアンは種族的配慮から彼女には攻撃を加えず生かしておく。しかしリプリーはエイリアンが自分を殺さないことを逆用して、エイリアンを焼き殺し、エイリアンの「子供」を誕生前に殺害する。<br />
  609.  リプリーを「妊娠」させたエイリアンとは要するに彼女の「夫」である。<br />
  610.  『エイリアン3』において種明かしされたのは、エイリアンとは女性を妊娠させ、自己複製を作らせようとする男性の欲望の形象化に他ならないという事実である。リプリーとエイリアンとの闘いは要するに「妊娠したくない女性と妊娠させようとするファルスの闘い」だったのである。<br />
  611.  考えてみれば、男性の本質を暴力的な侵入と見なすのはフェミニズムに基幹的な主張の一つであった。</p>
  612.  
  613. <p>「男性性のセクシュアリティの概念とは、女性性にとって暴力の介入と同義なのだ」(10)。</p>
  614.  
  615. <p> 『エイリアン3』はその主張をみごとに裏づけている。ただしフェミニストのテクストが事実認知的であるのに対して、映画のメッセージはむしろ行為遂行的である。この映画は男性性は本質的に暴力的であると「認知」しているのではなく、そう「宣言」しているのである。『エイリアン3』は「ファルスと闘う女性」の末路についての悪意にみちた予言である。<br />
  616.  自立を求める女性、男の子供をはらむことを拒絶する女性は、徹底的にファルス的な暴力にさらされ、子供を失い、友人を失い、美貌を失い、性生活を失い、夫を殺し、子供を殺し、自分も死ぬことになるだろう。この映画はそう予言している。ファルスと闘う女性はすべてを失うだろう。これがこの映画の発信するあからさまなメッセージである。そして、この映画の作り手たちは自分たちがそのようなメッセージを発信していることをおそらく自覚しておらず、それがアメリカの男性観客の「悪夢」を映像化してみせたのだということにも、おそらく気づいていない。</p>
  617.  
  618. <p>6・《物語》のために</p>
  619.  
  620. <p> 『エイリアン』というSFホラーは全編が性的なメタファーに溢れている。H.R.ギーガーがデザインしたエイリアンの頭部の完全にファルス的な形態や、その先端の開口部から垂れ落ちる半透明の粘液、襲撃の直前にぬらぬらと「勃起」してくる突起を思い出せば、エイリアンが男性の攻撃的な性欲の記号であることははじめから分かっていたことだった。<br />
  621.  どこからでも侵入し、不死身で、獲物の殺害と生殖しか念頭になく、《会社》の手厚い保護を受けたエイリアン。女性は「それ」とどう闘うべきかという切実で刺激的な主題をめぐって製作されてきたこのエイリアン・シリーズは、しかしながらここできわめてネガティヴで一面的な結論とともに幕を下ろした。<br />
  622.  《会社》(この宇宙に遍在する全能の組織体はもちろん「父権制社会」のメタファーである)の指示に従わず、妊娠・出産・育児を拒否し、女性的な徴候を身にまとうことを忌避してきた罪科によってリプリーは「殺される」。男に従わない女は罰される。それが第三作が下した「教訓」である。<br />
  623.  六000万ドルの制作費を投じたにもかかわらず『エイリアン3』は興行的には失敗し、批評も芳しくなかった。多くの批評家はこの映画の「ニヒリズム」と「寒々しさ」を指摘した。それが九〇年代アメリカの現実の性関係の「ニヒリズム」と「寒々しさ」をどの程度投影しているのか、私たちには分からない。<br />
  624.  しかし六〇年代以降「右肩上がり」に推移してきたアメリカのフェミニズムに対して、アメリカ男性の側に根深い悪意がわだかまってきていること、そして「父権社会の規範を無視して自由にふるまう女たちのもたらす災厄」を描いた物語が近年集中的にマイケル・ダグラス主演で映像化されているという徴候は指摘しておく価値があるだろう。(『ローズ家の戦争』The War of the Roses,1989 『危険な情事』Fatal Attraction 1987、『氷の微笑』Basic Instinct 1992、『ディスクロージャー』Disclosure1994、『ダイヤルM』The Perfect Muder 1998 )マイケル・ダグラスはこれらの一連の映画で、当代のハリウッド・スター女優を次々と「殺し」、男性観客にカタルシスを味あわせた。(「殺された」のは、キャサリン・ターナー、グレン・クローズ、シャロン・ストーン、デミ・ムーア、グイネス・パルトロゥ) <br />
  625.  このような映像に「女性嫌悪」の徴候を指摘することはむずしいことではない。その背後にひそむ欲望や不安を暴露することも、それについて教化的な言説を編むことも、場合によってはそのような表現の規制を求めることもできないことではない。(『氷の微笑』に対しては上映禁止運動が試みられた。)しかし、そのような非難、批判、告発、暴露、断罪といったみぶりをいくら繰り返そうとも、「抑圧された悪意」はそれをより巧妙に隠蔽する別の物語を迂回してゆくだけで消失するわけではない。<br />
  626.  私は『エイリアン3』は駄作であると思うが、その理由は映画が「女性嫌悪」的だからではない。(前二作においても父権制社会における「新しい女性」への処罰という話型は繰り返されていた。)第三作が駄作なのは、それが「女性嫌悪」というメッセージ「しか」発信していないからである。<br />
  627.  単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である。(それは「プロパガンダ」にすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は「質の高い物語」である。<br />
  628.  「質の高い物語」は私たちに「一般解」を与えてくれない。その代わりに「答えのない問題」の下に繰り返しアンダーラインを引く。私たちは「問題」をめぐる終わりのない対話、終わりのない思索へと誘われる。<br />
  629.  大衆芸術としての映画はそのような仕方で現実的な矛盾を矛盾のまま提出し、その「解決」を宙づりにし、「最後の言葉」を先送りしてきた。もしマルクスが20世紀に生きていたらきっと「映画は人民の阿片である」と言っただろう。マルクスが言わなければ私が代わりに言ってもいい。「映画は人民の阿片である」。<br />
  630.  しかし私たちの欲望や不安はつきるところ「物語」として編制されており、それは「物語」として紡がれ、また解きほぐされてゆくほかないのである。<br />
  631.  私たちが映画に望んでいるのは「最終的解決」ではない。ラストシーンに私たちが見たいのは to be continued の文字なのである。</p>
  632.  
  633. <p><strong>『ジェンダー・ハイブリッド・モンスター:エイリアン・フェミニズム2』</strong></p>
  634.  
  635. <p><br />
  636. 1・抑圧されたことば</p>
  637.  
  638. <p> ある祝賀会の席で「それではみなさん、上司の健康を祝して乾杯(anstoβen)しましょう」と言うべきところで、「げろを吐きましょう(aufstoβen)」と言ってしまった紳士の話をフロイトは『精神分析入門』の冒頭で紹介している。<br />
  639.  私自身もこれと似た経験をしたことがある。むかし、ある中堅予備校(Cゼミナールという名前だった)の講師をしていたとき、講師慰労会の席で、理事長が「駿台、代々木ゼミナール、河合塾による全国の予備校系列化に抗して戦おう」と檄を飛ばしたあと、予備校界では高名なある老講師が乞われて乾杯の音頭をとった。そして笑みを浮かべつつ「それでは代々木ゼミナールのますますのご発展を祈念して」と祝杯をかかげたのである。会場は氷のような沈黙につつまれた。老講師は誰も唱和してくれないので、しばらくぼんやりしていたが、やがて誤りに気づいて、よろよろと壇から降りた。<br />
  640.  これらの事例が教えてくれるのは、私たちは「言い間違い」を通じて自分の「本音」を語るということである。「げろ」紳士は「上司にげろを吐きかけてやりたい」と願っており、老講師はただしくCゼミナールの没落を予見していた。しかし、この本音はいずれも彼らの社会的立場と整合しないので抑圧される。抑圧された「本音」は、ちょうど堰き止められた水流が別の水路を迂回して流れ出すように、夢、妄想、神経症、あるいは「言い間違い」のような「症候」として再帰することになる。</p>
  641.  
  642. <p> 「症候とは抑圧によって阻止されたものの代理物である。」(1)</p>
  643.  
  644. <p> こんにちのアメリカ社会はハリウッド映画に対して法外なほどの「政治的な正しさ」(politically correctness)を要求している。女性差別、人種差別、民族差別、宗教差別、障害者差別、あらゆる種類の差別は許すべからざる社会的不正として断固として映画から追放されねばならない。アメリカというのは、このような「正義の要請」が空疎な訓話にとどまることなく、ヘイズ・コードや州単位でのカットや上映禁止といった具体的な圧力を通じて、映画製作そのものに効果的に関与してきた国である。したがってアメリカのフィルムメーカーは、「儲かる映画を作れ」とせっつく製作者や「面白い映画を見せろ」と騒ぐ観客に加えて「ポリティカリーにコレクトな映画を作れ」という知的な批評家からの要請にも応えてゆかなくてはならない。おそらく世界でハリウッド・メジャーのフィルムメーカーほど過酷な社会的圧力のもとで仕事をしている人々はいないだろう。<br />
  645.  しかし、いかにコレクトなフィルムメーカーとはいえ、必要以上に立派にふるまえば、それだけ抑圧するものは多くなり、表現を拒まれた欲望や不安は「症候」として映像に回帰することになる。これらの「症候」は、表層的にはポリティカリーにコレクトな設定で展開する映画の周縁あるいは細部に、ストーリーともテーマとも関係のない映像記号としてさりげなく露出している。それは主要人物の背景にかすむぼやけたシルエットであったり、登場人物の人名や地名であったり、背景の装飾や小道具であったり、誰も聞いていないBGMであったりする。それらの記号はそれ自体としてはほとんど意味をなさない。ただ「なんとなく場違い」であったり、「なんとなく執拗」であったり、「なんとなく過剰」であったりする、という仕方で標準値から差異化しているだけである。<br />
  646.  映画のイデオロギー性の査察を専門にする知的な批評家たちは、映画のプロットや主題や主人公の性格設定や監督のメッセージなどに焦点を合わせて映画を「批評的に」見る。彼らはスクリーンの「背後」にあるメッセージや、「隠された主題」の検出に選択的に意識を集中させている。<br />
  647.  それに対して、ふつうの観客は、映画のテーマにもストーリーにも登場人物の内面にもほとんど関心を持たない。彼らはただぼんやりとスクリーンをながめている。けれども映像の背後を見透かす集中力に欠けている代わりに、彼らは映像の表層に露出する症候には敏感である。これについてはジャン・ポーランが『タルブの花』に含蓄深い言葉を書き残している。</p>
  648.  
  649. <p> 「ある種の光は、それをぼんやり見ている人には感知できるが、凝視する人には見えない。ある種のみぶりは、なんとなく力を抜かないとうまくやり遂げられない。(例えば星を眺めるときや、手をまっすぐに延ばすときがそうだ。)」(2)</p>
  650.  
  651. <p> ドイツ軍の検閲下にガリマール書店から刊行された『タルブの花』で、ポーランは「政治的メタファーを駆使して、文学を語っている」かのように偽装しつつ、実は「政治用語を駆使して、政治を語る」というアクロバシーを堂々と演じてみせた。巻末のこの一節でポーランは自著の読み方を読者に教えているのだが、メタファーを深読みした文学通の検閲官は、これが反ドイツ的な政治パンフレットであることに最後まで気づかなかった。<br />
  652.  ほんとうに言いたいことは表層に露出している。映画についてもたぶん同じことが言えると私たちは思う。ぼんやりした観客だけが見つけられ、目を凝らしている批評家が見落とすものがある。<br />
  653.  ジェンダーとエスニシティにかかわる倫理コードが八〇-九〇年代のハリウッド映画にとって「検閲」として機能していることは否定しようのない事実である。女性差別と人種差別にかかわる「本音」をスマートなフィルムメーカーは決して語らない。攻撃的な性的欲望や女性嫌悪あるいは非白人種に対する差別は「自己検閲」によって周到に排除される。だが、抑圧された心的過程は消え失せたわけではない。それは症候として必ず映像の表層に回帰する。</p>
  654.  
  655. <p>2</p>
  656.  
  657. <p> 私たちはさきに『エイリアン・フェミニズム』という題名の論考において、一九七九年から一九九二年にかけて製作され、大きな商業的成功を収めた『エイリアン』シリーズ三作を物語論の視点から分析した。そのとき、私たちはこの連作の中心にあるのは、「体内の蛇」という説話的原型であるとするハロルド・シェクターの仮説から出発した。(3)<br />
  658.  一九七〇年代の終わりにこの説話原型は『エイリアン』として蘇った。この「体内の蛇」話型の復活はアメリカにおけるラディカル・フェミニズムの興隆期と同調していた。夫に仕え、不払いの家内労働を担い、子供を産み、育てるために存在するような依存的な生き方を否定し、自己実現のために自立して生きたいという強い指向がこの時期のアメリカ女性のあいだにみなぎった。だから、「自立する女性」リプリーが男性の自己複製欲望の記号である「蛇の怪物」とただひとりで戦い、それに勝利する物語は、当時のアメリカ女性の自立志向のたかまりにジャスト・フィットしたのである。<br />
  659.  エイリアンが表象する男性の攻撃的性欲と女性はどう闘うか。この切実で刺激的な主題をめぐってシリーズは製作されてきた。そしてそれは同時に、フェミニズムの「検閲」によって抑圧された男性の性的欲望と、激しい女性嫌悪が、つぎつぎと「偽装」のうちに再帰する、プロテウス的変身の歴程もあった。</p>
  660.  
  661. <p>3</p>
  662.  
  663. <p> 『エイリアン』はプロットの上では、フェミニズムの「検閲」をクリアーするきわめてコレクトな映画であるが、その一方で、エイリアンの造型にはっきり見て取れるように、映像的な水準では、男性の「インコレクト」な性欲があからさまに、執拗に描き出されていた。<br />
  664.  サイエンス・オフィサーのアッシュがリプリーに暴行をふるう場面では、「セクシスト的空間」の中で、彼女の口に擬似的な男性器「挿入」されるし、半裸のリプリーを攻撃するために身を起こすときのエイリアンの頭部のシルエットはあからさまに勃起した男性器をかたどっていた。アンドロイドであるアッシュも、エイリアンも「男性」ではない。だからプロットの水準では、これらのシーンが性的攻撃を「意味する」ことはありえない。しかし、「ぼんやり映画を見ている」男性の観客は、彼らの抑圧された攻撃的性欲を直接的にみたすのに十分エロティックな映像的表現をあやまたずスクリーンの上に見出すことができたのである。</p>
  665.  
  666. <p> 『エイリアン2』は成功した「女性映画」(少し意地悪く言えば「女性観客から金を搾り取る映画(feminine exploitation movie)」)だった。この映画はフェミニズムの対立する二つの陣営(ラディカル・フェミニズムとフェミニズム本質主義)から課された二種類の「検閲」をのがれるために、両方の要請に同時に応えるというアクロバシーを演じてみせた。<br />
  667.  この「二つのフェミニズム」の葛藤は、八〇年代に入って、「フェミニズム本質主義」というあらたな思潮が出現したことに始まる。フェミニズム本質主義とは、女性性を本質的なものとして認め、その逆説的優位性を説く立場である。<br />
  668.  フェミニズム本質主義によれば、女性は「帝国主義国家対植民地」、「抑圧者対被抑圧者」、「中心対周縁」、「文明対自然」といった二項対立図式の、後の項に固定される。女性は被搾取者であり、被抑圧者であり、踏みにじられた大地であり、汚された母なる自然である。それゆえ、女性は(かつてプロレタリアートや民族解放闘争の戦士がそうであったように)その政治的な負性の代償に「正義」の請求権を手に入れる。<br />
  669.  「差別されてきたものだけが弱者の痛みを理解できる」、「周縁に排除されてきたものだけが制度への異議申し立てを行いうる」といったツイストの利いたロジックによって女性性の優位を説いたこの理説は(イリガライ、クリステヴァらの「フランス・フェミニズム」に理論的に依拠しつつ)八〇年代のアメリカにおいて、それまで過度に貶められてきた母性や育児や家事労働や家庭の価値の見直しへと女性たちを導くことになった。<br />
  670.  上野千鶴子によれば、この「転向」をもたらした理由のひとつは、ラディカル・フェミニズムの担い手たちがこの時期に「母になる生物学的タイムリミット」を迎え、「七〇年代にはキャリアの確立を優先した女性やレズビアンの女性たちが、八〇年代になって三〇代のかけこみ出産ブームをつくった」ことにある。「彼女たちは男性との関係には希望を抱いていなかったが、母性の価値を捨てようとは思わず、八〇年代アメリカのフェミニズムは母性と家庭の価値の再評価に向かった。」(5)<br />
  671.  <br />
  672.  キャリア指向か家庭回帰か?八〇年代フェミニズムが直面したこの緊急な問いに『エイリアン2』はみごとな映像的回答を提出して、大きな商業的成功を収めた。<br />
  673.  キャメロンは二種類のフェミニズムから課された「検閲」を同時にクリアーするという離れ業を演じつつ、『エイリアン』の場合と同じく、男性観客のためのささやかな悪意のスパイスを映像の細部に仕掛けてみせた。『エイリアン2』は、どちらにせよフェミニストが手に入れられた「家庭」がどのようなものでありうるか、そのモデルを映画のラストで映像化してみせる。それは「母親」でありかつ「キャリア・ウーマン」であるリプリーと、そのレプリカであるニュートが作る疑似的母子関係に二人の「不能の男性」を配した聖家族である。<br />
  674.  マイケル・ビーン演じるヒックス伍長は外見的にはマッチョであるが、断片的な映像が繰り返し示すとおり「視る能力のない」男である。彼は「暇さえあれば眠る男」として登場する。エイリアン掃討戦のあいだ彼が口にする言葉は「どこにいる!見えない!」であり、医務室でエイリアンに襲われたリプリーが救援を呼ぶときにはモニターを見落とし、リプリーと女王エイリアンの戦いのときには麻酔を打たれて眠っており、映画の最後の人工冬眠器に収まるシーンでは目を包帯に覆われて横たわっている。<br />
  675.  ヒックスについてまわるこの執拗なまでの「視る力の欠如」は「不能」の記号と解釈することができる。フェミニズム映画論の文脈では、「視る」とは「支配する」の同義語であり、「女性を見る男性の視線」―「三重の男性的視線」(triple male gaze)すなわちカメラの眼、俳優の眼、観客の眼―は窃視的暴力そのものであるとされる。だとすれば「視ることのできない男」ヒックスの男性性は映像的に「去勢」されていたことになる。<br />
  676.  アンドロイドのビショップ(ランス・ヘンリクセン)も別の意味できわだって「非男性」的な存在である。彼は無性の人造人間であり、その男性的外見は単なる仕様にすぎない。彼はクルーの全員から「無償の労働」と「死を顧みない献身」を当然の仕事として期待されており、その卓越した遂行能力を評価し感謝するものは(映画の最後でのリプリーを除いて)一人もいない。ビショップが担っているのはまさに「不払い労働」であり、彼の労働が「不払い」であるのは、その生産物に交換価値がないからではなく、単に彼が「低い序列」に類別されているからにすぎない。つまり、ビショップは外見的には「男性」だが、その社会的役割は完全に「女性ジェンダー化」しているのである。それゆえ、その宿命にふさわしく、ビショップは女王エイリアンの男根状の剣尾で深々とさし貫かれて、引きちぎられることになる。フェミニストたちにとっての「理想」の家庭、それは非血縁的=同志的な母子関係に「不能の男たち」がからみつくようなかたちで構成されるだろうと『エイリアン2』の図像学は告げている。</p>
  677.  
  678. <p>4・<br />
  679.  <br />
  680.  八〇代中盤からフェミニズムは再び変貌を遂げた。それは女性性を実体めかして語ったフェミニズム本質主義への鋭い批判として語り出されるのだが、それを準備したのは医学上の新たな知見であった。<br />
  681.  それまでのフェミニズムはジェンダーという文化的性差を痛烈に批判しながら、セックスという生物学的性差は価値中立的な事実としてそのままに受け容れてきた。しかし、内分泌学は、男女の性別というデジタルな性差は、実は性ホルモンの分泌量というアナログで連続的な変化の途中に恣意的に引かれた境界に他ならないという考え方を私たちに伝えた。同じように、解剖学は外性器についても二項対立的な性差は存在せず、誕生後に外性器が矮小化したり、肥大化したりすることはまれでないし、両方の性器が発達するandrogynousも存在することを教えている。いずれの水準でも、自然界に見られるのは、多様性と連続性だけであり、デジタルな性差なるものは科学的事実としては存在しない。セックス・ボーダーは人間の作り出した仮象にすぎなかったのである。<br />
  682.  では、なぜセックスはそれにもかかわらず、これまで「自然な」二項対立として観念されてきたのだろうか?<br />
  683.  性同一性障害という事例がその問いに答えの手がかりを与えてくれた。<br />
  684.  性同一性障害とは、自分の生物学的セックスとジェンダー・アイデンティティが一致しない症候のことである。仮に生物学的には「男性」であると認定された人が、ジェンダー・アイデンティティとしては「女性」を自認している場合、この違和感を解決するには二つの可能性がある。「あっちへ行く」か「こっちへ戻る」かである。さて、「彼」はどちらを選ぶだろう。セックスに適合すべく「男性として生きる」ことに努めるか、ジェンダーに適合すべく「女性として生きる」ことか?<br />
  685.  臨床例が教えてくれるのは、ほとんどの性同一性障害者は、自分のセックスに違和を覚え、異性のジェンダーに親和するという事実である。多くの性同一性障害者は、性器切除や造膣術など高額の出費と苦痛をともなう身体加工手術に耐えてまで、異性のジェンダーに自分をなじませる道を選んでいる。つまり、文化的な制度であるジェンダー・アイデンティティは生物学的セックスに優先するのである。<br />
  686.  私たちは『とりかへばや物語』から『ベルサイユのばら』まで、ジェンダー・アイデンティティのゆらぎにかかわる多くの物語を持っている。それらの物語が教えてくれることもまた、性同一性障害者の事例と一致する。それは、個人のレヴェルでは、どのジェンダーを選ぼうとも、いずれかのジェンダーを選んだものは必ずジェンダー構造の強化に奉仕するということである。<br />
  687.  性差の境界を超越する者は、「男」を選ぶときは、因習的な仕方で男性的となり、「女」を選ぶときは因習的な仕方で女性的となる。おのれを閉じ込めているジェンダーの壁を超えようとするものは、「壁の反対側」に安定的に帰属することを望んでいるのであって、壁の解体を望んでいるわけではない。ジェンダーに関する限り、「越境」によって壁は破壊されるのではなく、強化されるのである。<br />
  688.  かかる知見に準備された知的風土から出発して、フェミニズムの刷新を果たしたのがクリスティーヌ・デルフィである。ジェンダー・アイデンティティにおいて、ジェンダーがセックスより優位であるのは、セックスという概念それ自体がジェンダーによって事後的に作られた仮象だからであるという大胆な仮説をデルフィは立てたのである。</p>
  689.  
  690. <p> 「手短に要約するならば、私たちはジェンダー―女性と男性の相対的な社会的位置―がセックスという(明らかに)自然的なカテゴリーにもとづいて構築されているのではなく、むしろジェンダーが存在するがために、セックスが関連的事象となり、したがって、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える。(…)私たちは抑圧がジェンダーをつくりだすと考える。つまり、論理的には、分業の階層的序列が技術的分業に先立って存在していて、この序列が技術的分業、すなわちジェンダーと呼ばれる性的役割をつくりだしたのだと考える。そして、人間の階層的な二分割が解剖学的差異を社会慣行に適合した区別に変化させるという意味において、今度はジェンダーが解剖学的セックスをつくりだしたのである。社会慣行が、しかも社会慣行のみが、一つの自然的事象を思考カテゴリーに変化させるのだ。」(6)</p>
  691.  
  692. <p> デルフィによれば、社会の二極への分割は(そう信じられているのとは逆に)階層分化→分業→ジェンダーの差異化→セックスの差異化という順に進んでいる。生物学的性差は差別の「起源」ではなく、「階級」社会のイデオロギー的「産物」だったのである。<br />
  693.  一読しておわかりだろうが、フェミニズムにおける最新の知見は、意外なことに、私たちの世代にとってはきわめて「懐かしい」語法で綴られている。デルフィはフェミニズム本質主義のイデオロギー性を批判してこう書いている。</p>
  694.  
  695. <p> 「自然界との関係というものは存在しない(…)人間どうしの関係を事物どうしの関係あるいは事物との関係に見せかけるというのは、ブルジョワ・イデオロギーの明白な特徴である。」(7)</p>
  696.  
  697. <p> 『ドイツ・イデオロギー』にはこう書かれている。</p>
  698.  
  699. <p> 「諸個人が彼らの生活を表出する仕方は、すなわち彼らが存在する仕方である。したがって、彼らが何であるかは彼らの生産に、すなわち彼らが何を生産するか、ならびにいかに生産するかに合致する。」(8)</p>
  700.  
  701. <p> この文章の「彼らが何であるか」を「彼らの(ジェンダーが)何であるか」と書き換えれば、マルクスの命題はそのままデルフィの命題に一致する。<br />
  702.  あるいは、「分業とともに、精神的活動と物質的活動が―享受と労働が、生産と消費が別々な個人の仕事になる可能性、いな現実性が与えられる。(…)それらが矛盾におちいらずにすむ可能性はただ分業がふたたびやめられることのうちにのみ存する」(9)という一節の中の「個人」を「ジェンダー」に書き換えても同様である。<br />
  703.  デルフィにおいて、フェミニズムはいわば一五○年かかってマルクスに回帰したのである。デルフィのマルクス主義的フェミニズムによれば、ジェンダーは階級社会に起因するものであり、それゆえジェンダーの廃絶は階級社会の廃絶と同時的に達成される。(レーニンを信じるなら、それは「ブルジョワジーの暴力装置である国家の廃絶」をも意味するだろう。)事実、デルフィはこう断言している。<br />
  704.  <br />
  705. 「さしあたり言えるのは、家父長的生産・再生産システムが廃絶されないかぎり、女性は解放されないだろうということである。このシステムは(どんなふうに生じたにしろ)現に知られている社会すべての中核をなしているのだから、女性の解放のためには、現に知られている社会すべての基礎を完全にくつがえす必要がある。この転覆は革命なしには、すなわち、現在他の人間に握られている、私たち自身を支配する政治的権力を奪取することなしには実現できない。」(10)</p>
  706.  
  707. <p> 美しいほど明快だ。ここにはもう女性性や母性についての幻想はあとかたもない。性にかかわるすべてのイデオロギー的仮象は消え失せ、主人と奴隷の間の剥き出しの権力闘争という社会関係だけが残る。<br />
  708.  この政治的・唯物論的フェミニズムを通じて、アメリカ映画は「フェミニズムの顔をしたマルクス主義」のつきつける知的・倫理的な「検閲」に直面することになった。およそ知的であろうと望むフィルムメーカーはこの「検閲」をクリアーする映画を作らなければならない。<br />
  709.  さいわい唯物論的フェミニズムのひとつのトピックが製作者の投資意欲と監督の作家的想像力を刺激した。それは「デジタル・セックスのアナログ化」というSF的仮定である。ジェンダーが解体し、二極的セックスが無効になるとき、私たちの眼前にはおそらく人類がこれまでに見たこともないアモルファスでカオティックな「連続体としてのセックス」が展開するに違いない。『エイリアン3』と『エイリアン4』はこのSF的想定から生まれた。</p>
  710.  
  711. <p><br />
  712. 5</p>
  713.  
  714. <p> 「検閲」に対するもっとも常套的な反抗は、「過剰に迎合」してみせることである。『エイリアン3』において、女性嫌悪はフェミニズムを懐柔し、それに迎合する話型を通じて吐露された。ここで描かれたのは、因習的な意味での女性ジェンダーがもはや存在しない世界、「女性が女性であることをやめた世界」である。リプリーはそれまでの二作で彼女にまとわりついていたわずかばかりの女性性をことごとく剥ぎ取られる。<br />
  715.  リプリーはこの作品の中ではじめてセックスをするが、その場面からエロティックな要素は周到に排除されている。囚人たちによる未遂に終わるレイプは性的欲望よりもむしろ憎悪によって駆動されており、合意の上のセックスは二人の痩せた病人が寝ているようにしか見えない。<br />
  716.  もし男性の欲望を喚起することが女性の性的「魅力」であると解釈するのが因習的なジェンダー構造の特性であるとしたら、この映画はみごとにそれを無効化することに成功した。リプリーはこの映画の中で、いかなる意味においても「魅力」的ではないからだ。彼女は囚人星の全員にとって最初から最後まで「厄介者」「嫌われ者」であり、この映画の中で彼女が説明や助力を求めた相手は例外なしに(ゴミ捨て場にうちすてられたビショップの残骸までも)その申し出を拒絶する。<br />
  717.  リプリーが彼女を「妊娠」させたエイリアンを焼き殺し、胎児を「中絶」し、溶鉱炉に身を投じて映画は終わる。ある研究者によれば、この結末は映画文法的に予見可能であったということになる。というのは、「子どもの扶養者は決して死なない」ということと「純潔でない女はモンスターに殺されてもしかたがない」はハリウッド・ホラーの不文律だからである。<br />
  718.  『エイリアン2』の終幕で、「リプリーは母であり(負傷し、無力な海兵隊員ヒックスの)『妻』の資格で生き延びたわけである。『本当の女』は生きる。なぜならハリウッドは子どもが母親の保護を受けずにいることには耐えられないからである。」(11)<br />
  719.  リプリーが生き延びたのがその理由によってであったとすれば、保護すべきニュートと死別し、医師と性交し、エイリアンの「子ども」を「中絶」したリプリーに生き延びるチャンスがあるはずはなかった。<br />
  720.  『エイリアン3』は「女性性の否定」というフェミニズムのラディカル化に寄り添うような設定をしつらえながら、実際にはそのような趨勢への嫌悪感をあからさまに映像化したためにきわめて後味の悪い映画に仕上がった。<br />
  721.  しかしハリウッドはSFホラー+フェミニズム映画という、シリーズが開拓した有望なマーケットをこんなふうに消滅させるわけにはゆかなかった。「デジタル・セックスの解体」はもう一度希望の語法で語られなければならない。かくしてハリウッドは死んだ主人公を秘術を尽くして蘇生させ、『エイリアン4』を世に送ることになったのである。</p>
  722.  
  723. <p>6</p>
  724.  
  725. <p> リプリーが溶鉱炉に身を投じてから二〇〇年。死体から採取された血液と体組織の断片から抽出されたDNA操作によってエレン・リプリーは「復活」する。<br />
  726.  宇宙船オリガ号の中の実験室でリプリーを死から呼び戻した科学者たちの狙いは、死の直前に彼女に「寄生」し、誕生をまぢかにしていた女王エイリアンの胎児を蘇生し、摘出することである。宇宙船の指揮官ペレス将軍は、リプリーの胸部を「帝王切開」して取り出された女王エイリアンが産卵するエイリアンたちを訓練し、宇宙最強の生物兵器として編制するという野心的な計画を抱いている。実験用に生かされることになったリプリーは、エイリアン遺伝子の影響で、異常なスピードで成長をとげ、超人的な運動能力を発揮するようになる。<br />
  727.  エイリアンたちはやがて檻を破り、乗組員たちは次々と惨殺される。混乱の中でリプリーは、エイリアンの「餌」を密輸してきた海賊たちとともに宇宙船内を脱出艇めざして彷徨する。そしてエイリアンの営巣地に迷い込んだリプリーは、そこで人間とエイリアンの遺伝子をあわせもった新世代エイリアンを出産しようとしている女王エイリアンと対面することになる……<br />
  728.  誰にでも分かるように、第四作の主題は「雑種」(ハイブリッド)である。印象的な登場「人物」の多くは雑種である。リプリーと女王エイリアンが産み出した新生命体(Newborn)はともにエイリアンと人間の「混血」である。リプリーを暗殺するために海賊船に乗り込んできたコール(ウィノナ・ライダー)は女性型アンドロイド、海賊船の技師ヴリスは人間と機械のハイブリッド、地獄巡りをともにする「エイリアンの餌」用人間ラリーはすでに腹の中にエイリアンを仕込まれている。ここでは人間と異星人、人間と機械の間の境界は限りなく曖昧である。<br />
  729.  映画の主人公の二人の「女性」、リプリーとコールは、厳密には「女性」でもなければ「人間」でもない。コールは人間の感情と思考パターンをインプットされた(「人間よりも人間的な」)アンドロイドであり、リプリーはエイリアンを受胎したまま死んだ女のクローン、つまり人間とエイリアンの二種族双方の遺伝情報を組み込んだ雑種生命体である。<br />
  730.  「人間であり同時にエイリアンである」というリプリーの設定はこのシリーズ固有の文法に従って解読すれば、「女であり、同時に男である」生命体を意味する。父親も母親もなしに実験室で「孵化」し、男女の性的境界を無化するジェンダー・ハイブリッドであるリプリーについてシガニー・ウィーヴァーはこう語っている。</p>
  731.  
  732. <p> 「今回のリプリーはもっとサバイバル向きの女で、前よりずっと冷血よ。人間は哺乳類で、哺乳類の脳の奥には冷血動物の脳がひそんでいて、冷血動物の脳が貪欲な食欲を持っている。リプリーはその貪欲な脳に支配されて、貪欲な動物になってしまった。生に執着して、サバイバルのために冷血に行動するのよ。彼女の中にあるものが彼女を冷血な行動に駆りたてる。彼女がどんな存在であれ、人間としての彼女はすでに死んでいて、彼女はエイリアンとして生き延びていく。ここが重要なのよ。」(13)</p>
  733.  
  734. <p> 『エイリアン4』のリプリーは単に「女性性を欠く」というような生やさしい存在ではない。リプリーはすべての「男性的攻撃」をやすやすとはねかえす。科学者の首を締め上げ、海賊船の巨漢たちをバスケットボール一個でぶちのめし、鉄の扉を素手でこじあけ、エイリアンを撃ち殺す。<br />
  735.  『エイリアン』では自立指向がリプリーを駆動していた。『エイリアン2』では御しがたい母性愛がリプリーをとらえていた。『エイリアン3』では「女性的であってはならない」という否定命令が課されていた。しかし『エイリアン4』のリプリーには、男性的エートスも、女性性も、母性のしがらみも、「女性性」の否認義務も、およそ「性」にかかわる当為は何ひとつ存在しない。「敵を殺して、生き残る」ことだけが彼女の唯一の行動規範である。その意味では彼女はこの映画ではじめてジェンダー・フリー、モラル・フリーな存在として描かれたことになる。<br />
  736.  性的幻想のみならず、血縁幻想からもリプリーは完全に自由である。<br />
  737.  船内を暴れ回るエイリアンたちは外宇宙から飛来した異星人ではなく、発生的にはリプリーの「胎内」から取り出された女王エイリアンの子供たちである。だから(映画の中では「あんたの兄弟姉妹」というふうに呼ばれているが)ただしくはリプリーの「孫たち」に相当する。つまりリプリーのエイリアン退治は親族名称を使って言えば「祖母による孫殺し」なのである。<br />
  738.  『エイリアン2』で「家庭回帰する母性」の記号として存分に悪役ぶりを発揮した女王エイリアンも今回は影が薄い。リプリーから得た遺伝情報のおかげで、胎生動物に「進化」し、「エイリアンと人間の雑種生命体」ニューボーンを産み落とした彼女は、せっかく腹を痛めて産んだばかりの子供にいきなり頭を叩き潰されて絶命する。<br />
  739.  そのニューボーンはなぜかリプリーを慕ってすり寄ってゆく。(どうしてエイリアンの「母」を殺して、人間的な「祖母」を慕うのかは説明されない。)けれども、この「祖母」は逡巡なく「孫」を細切れにして宇宙空間に放り出す。<br />
  740.  「子による母殺し」と「祖母による孫殺し」によって親子関係のラインがきれいに精算されたあと、すべての性的、種族的なしがらみから解放された二体のハイブリッド生命体、リプリーとコールが窓の外に見える青い地球をみつめている場面で映画は終わる。<br />
  741.  私たちはさきに、この映画の基本的な主題が、ジェンダー構造が解体し、デジタル・セックスが無効になるとき、私たちの眼前に展開するはずの「人類がこれまでに見たこともないアモルファスでカオティックな連続体としてのセックス」であると書いた。このプランは「雑種交配」による既存のあらゆるジェンダー構造、親族的エートスの消滅として、たしかに映像化されたと言ってよいだろう。ここにはもう男も女も親も子もいない。<br />
  742.  映画は最後で、リプリーとコールの間に成立した連帯とそれがもたらすはずの来るべき共同体を暗示している。リプリーはエイリアンと人間のハイブリッドであり、コールは人間と機械のハイブリッドであるから、彼女たちがかたちづくる共同体は、エイリアン/人間/機械の三つの領域の癒合体ということになるだろう。そもそもH・R・ギーガーによるエイリアンの最初のデザイン・コンセプトが「マン/マシーン共生ユニット」(バイオメカノイド)であったことを思い出すと、この三領域はきれいなループを構成したことになる。つまりエイリアンと人間と機械は、『ちびくろサンボ』の虎たちのように、お互いのデジタルな尻尾を追っているうちにいつのまにかアナログな「バター」になってしまったのである。<br />
  743.  ジェンダー解体を求める唯物論的フェミニズムの要請に対して、ジャン=ピエール・ジュネは、男も女も母も子もみんなまとめて「バター」にしてみせた。これはある意味では唯物論的フェミニズムの「検閲」に対する「模範回答」である。しかし、エイリアン・サーガの先行作品と同じく、ジュネもまた濃厚な悪意の映像を仕掛けることを忘れなかった。</p>
  744.  
  745. <p>7</p>
  746.  
  747. <p> リプリーの腕には「8」という入れ墨が入っている。その意味はやがて明らかにされる。リプリーは船内探索の途中、ある実験室の中に「リプリー一号」から「リプリー七号」までの「標本」(七号はまだ生きているが、あとはホルマリン漬け)が陳列してあるのを発見する。クローンの「失敗作」であるこの七体はリプリーとエイリアンの「雑種」の考え得る限りもっともおぞましい姿のカタログである。リプリー八号は「殺して」と訴えるリプリー七号の求めに応えて、すべての「姉妹たち」を涙ながらに火炎放射器で焼き殺す。<br />
  748.  リプリー8号は造形的には人間であり、能力と感性に「エイリアンが入っている」という設定であるので、ヴィジュアルな水準では(やたらに力が強いのと、血が強酸性であることを除くと)前景化しない。しかし「ニューボーン」と七人の姉妹たちは、造型的にも異種混合である。ハイブリッドの本質はこのとき映像のレヴェルできわめて効果的に語られる。<br />
  749.  もしシガニー・ウィーヴァーが言うように、半ば人間であり、半ばエイリアンであるような存在となったリプリーが主人公を演じるべきなら、リプリー七号(女性とエイリアンがぐちゃぐちゃまじっている)にもこの映画の主人公になる権利はあったはずである。しかし、七号にはそのチャンスが与えられなかった。なぜか。理由は簡単である。<br />
  750.  気持ちが悪いからだ。七号は「エイリアンそのもの」よりも遙かに醜悪であり奇怪な「怪物」である。少なくとも観客にはそう感じられる。<br />
  751.  「怪物」とは、「怪物」という独立したカテゴリーに帰属するものを指すのではない。複数の種族の属性を同時に備えているようなものを私たちは「怪物」と呼ぶのである。<br />
  752.  キマイラ、スフィンクス、グリフォン、「ぬえ」といった伝説的な怪物は、さまざまな動物のパーツからなる一種のコラージュである。フランケンシュタインの怪物は人間と非人間の境界におり、狼男は自然と文明の境界におり、屍鬼や吸血鬼や死霊たちは「幽明の境」に蟠踞する。見世物小屋をにぎわすフリークスたち(蛇女、たこ娘、半魚人、髭娘)はそれぞれ二つの種の混淆体である。人間の想像力が生み出した怪物たちはすべて「カテゴリーの境界線を守らぬものたち」である。<br />
  753.  なぜ境界線を行き来するものは私たちを恐怖させるのか?<br />
  754.  その理由をレヴィ=ストロースは簡潔にこう述べている。「いかなるものであれ分類はカオスにまさる。」(14)<br />
  755.  古来、人間は二項対立によるデジタルな二分法を無数に積み重ねることによって、アナログでアモルファスな世界を分節し、記号化し、カタログ化し、理解し、所有し、支配してきた。それは「野生の思考」からコンピュータにおける「ビット」の概念まで変わらない。「アナログな連続体をデジタルな二項に切りさばく」のが人間の思考のパターンである。それが「知」であり、それによって構築されたものを私たちは「文明」と呼んでいる。これまで人間はそのようにして生きてきたし、たぶんこれからもそのようにして生きてゆくだろう。<br />
  756.  そうである以上、デジタルな対立を無効化してアナログな連続性を回復しようとするハイブリッドに嫌悪と恐怖を覚えるのは、「人間として」当然の反応なのである。<br />
  757.  私たちはハイブリッドを「怪物」として恐れ、嫌い、排除する。それは人間の社会がカオスに線を引くことによってはじめて成立するからである。「Aであり同時にBであるもの」を人間の文明は許容しない。<br />
  758.  「そのような分節は人間が勝手に作り出した擬制にすぎない」という異議は正しい。しかし、「人間が勝手に作り出さなかったら誰が文明を作るのだ」という反論も同じように正しいと私たちは思う。「文明」とは要するに境界線なるものを仮構して、連続性を二項対立に読み替える詐術に他ならないのである。<br />
  759.  リプリー七号までの姉妹たちは「文明化」に失敗し、八号がはじめてそれに成功した。彼女は精神的内面においてエイリアンであり、肉体的外面において人間である。境界線は「エイリアン的内面」と「人間的外面」の間に仮構されている。二つの血統を「内面」と「外面」に詐術的に分離することによって、リプリー八号は文明化をなしとげた。それゆえ私たちは彼女を「怪物」ではなく「人間」として認知するのである。<br />
  760.  物語の水準では、リプリーとコールは、エイリアンと人間と機械の境界線を無化したはずでだった。しかし、リプリーはエイリアン要素を、コールは機械要素を「内面」に閉じ込めている。異族との境界線は「内面」と「外面」という垂直的な境界線に置き換えられることで延命を果たしたのである。<br />
  761.  エイリアン/人間/機械の種族境界線は「バター」になって消滅したはずであった。たしかにプロットのレヴェルでは、デジタル・ボーダーは完膚無きまでに破壊された。しかし、映像の表層では、カオスを防ぎ止める境界線はあらわに前景化している。破壊されたはずのボーダーは、美術スタッフの力作である「ニューボーン」と「姉妹たち」の造形的な醜さと、シガニー・ウィーヴァーとウィノナ・ライダーの造形的な美しさがもたらす視覚効果として強固に再構築されたのである。<br />
  762.  アモルファスな世界にデジタルな境界線を引くものだけが生き残る。<br />
  763.  このメッセージは、ここでもまた「怪物」を気持ち悪いと感じ、二人の女優の「美貌」にみとれる「ぼんやりした」観客たちだけに伝達されたのである。</p>
  764.  
  765. <p>8</p>
  766.  
  767. <p> 高橋源一郎は政治と文学の関係について次のように書いている。<br />
  768. 「『政治』は『文学』と対峙する時、必ず敗れる。なぜなら、『文学』は『政治』より『深く』『広い』からだ。(…)『政治』の本質が『わたしは正しい、やつは間違っている』なら、『わたしは正しい』と訴える『文学』はすでに『政治』に冒されているのである。そして『わたしは正しい』と主張する『文学』は『政治』であるが故に、ついにこの世界の基底とは成り得ないのだ。<br />
  769.  では、世界の基底に成り得る、世界を成り立たせることのできる『文学』とは何なのか。」(15)<br />
  770.  高橋はこの「最後の問い」を書きとめたところで筆を擱いている。私たちはこの文章の中の「文学」を「映画」に置き換えて読んでみた。そして高橋と同じ「最後の問い」の前にたたずんでいる。<br />
  771.  「コレクトネス」を求める人々が映画をいくら統御しようと試みても、その勝負は必ず映画の勝利に終わるだろう。映画が二〇世紀の生み出したあらゆる物語装置の中でもっとも成功したことの秘密はたぶんそこにある。映画はつねに時代の権威に屈服し、支配的なイデオロギーに迎合し、なりふりかまわず流行を追ってきた。その職業的な変節ぶりは、現政権と反政府ゲリラ組織に同時に献金して「保険」をかけている資本家によく似ている。まさしく「面従腹背」こそは映画の本性である。映画はひとつのメッセージを言語的に語りながら、それと矛盾するメッセージを非言語的に発信することのできる理想的な詐術の装置である。このような映画のあり方はたしかに「正しく」はない。私たちはそれに同意する。けれども映画は「正しい」思想よりもしばしば「広く」「深い」。私たちはこの「映画の狡知」を愛する。おそらく、そこに「世界の基底」に通じる隘路を見出すからである。</p>
  772.  
  773. <p></p>
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  811. <p></p>
  812.  
  813. <p></p>
  814.  
  815. <p></p>
  816.  
  817. <p></p>
  818.  
  819. <p></p>
  820.  
  821. <p></p>
  822.  
  823. <p></p>
  824.  
  825. <p></p>
  826.  
  827. <p></p>
  828.  
  829. <p></p>
  830.  
  831. <p></p>
  832.  
  833. <p></p>
  834.  
  835. <p></p>
  836.  
  837. <p></p>
  838.  
  839. <p></p>
  840.  
  841. <p></p>
  842.  
  843. <p></p>
  844.  
  845. <p></p>
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  847. <p></p>
  848.  
  849. <p></p>
  850.  
  851. <p></p>
  852.  
  853. <p></p>
  854.  
  855. <p></p>
  856.  
  857. <p></p>
  858.  
  859. <p></p>
  860.  
  861. <p></p>
  862.  
  863. <p><br />
  864. 『エイリアン・フェミニズム1-欲望の表象』</p>
  865.  
  866. <p>世界は書物を介して語られることがなければ、<br />
  867. それほど真実味にあふれたものではないだろう。<br />
  868. ピエール・マシュレ</p>
  869.  
  870. <p><br />
  871. 1・ 《屋根の上の赤ん坊》</p>
  872.  
  873. <p> ある若い夫婦が生まれたばかりの赤ん坊をベビー・ベッドにのせてドライブにでかけた。途中で車がオーヴァーヒートしたので、夫婦は車を止めてエンジンを冷やすことにした。少しでも涼しいようにと赤ん坊はベビー・ベッドごと車の屋根に乗せた。そのうち若い夫婦は言い争いを始めた。エンジンが冷え、車が走り出してもまだ車内では怒鳴り合いが続いた。そのうちに二人はふとさきほどから赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついた……。<br />
  874.  「友だちから聞いた本当の話」という枕を振って始まるこの種の「奇譚」を社会学は「都市伝説」(urban legend)と呼ぶ。J.H.ブルンヴァンはその都市伝説研究の中で、この「屋根の上の赤ん坊」のヴァリエーションが全米にひろがっていることを確認している。(1)<br />
  875.  「屋根の上の赤ん坊」は、若くして子供を持ってしまったため、身の丈にあわない社会的責任を押しつけられることになった若い夫婦の心にきざした不意の殺意に触れている。ストレスフルな育児のさなかに「この子さえいなければ……」という悪意の訪れを経験したことのある親は少なくないはずだ。しかしその欲望を意識することには強い禁忌が働いている。欲望がありながら、倫理や慣習がそれを意識し表現することを固く禁じているとき、ひとはその欲望が書き込まれた「物語」を必要とする。都市伝説はそのような欲望が要請した物語群である。<br />
  876.  この都市伝説は「完全に伝統的な民話の要素―お粗末な親、捨てられた赤ん坊、奇跡的な救出―から成り立っている。そしてすぐれた民話がすべてそうであるように、われわれのきわめて根源的な情を揺さぶると同時に、ある特定の時代・場所における関心事と不安を反映している」(2)とハロルド・シェクターは書いている。<br />
  877.  <br />
  878.  アカデミー賞二部門にノミネートされ、主演のマコーレー・カルキンを一躍スターダムに押し上げた1990年の大ヒット映画『ホームアローン』Home alone はクリスマス休暇にパリへでかける大家族が、末っ子をうっかり家に置いてきてしまうという「意外」な設定から始まるが、このプロットは実は「子捨て」民話の元型を忠実になぞっている。<br />
  879.  映画のハイライトは、パリ行きの飛行機の中で母親が「何かを忘れたような気がする」と不安にかられて、突然子供を忘れてきたことを思い出す場面であるが、これは「屋根の上の赤ん坊」の「赤ん坊がずいぶんおとなしいことに気がついて……」というクライマックスと話型的には同一である。<br />
  880.  「親が子を捨てる」話はヨーロッパの多くの民話に見ることができる。<br />
  881.  ロバート・ダーントンによれば、「子供を捨てるというモチーフは『親指小僧』の農民版にもそのほかの民話にも存在するし、嬰児殺しや幼児虐待も様々な形をとって物語に登場する。ときには両親が子供を追い出して、乞食や泥棒にしてしまうこともある。両親自身が逃亡して、家に残された子供たちが物乞いをして生きるという場合もある」(3)。<br />
  882.  エリザベト・バダンテールによれば、親による(直接的あるいは間接的な)「子殺し」は十九世紀まで良心の咎めなしに行われていた。例えば、一八世紀のフランスでは、母親が手もとで子どもを育てる習慣がなく、多くの幼児は生まれるとすぐに乳母に預けられた。(その数は一七八○年のパリでは、一年間に生まれる二万一千人の乳児のうち一万九千人に及んだ。)(エリザベート・バダンテール、『母性という神話』、鈴木晶訳、筑摩書房、1998年、84頁)里子に出されたものの生存率は低かったが、両親に育てられた幼児も決して安全ではなかった。繰り返し教会が禁止を命じたにもかかわらず、幼い子どもを両親といっしょに寝かすという習慣は根強く、そのために幼児が窒息死するという事例が頻発したし、衛生についての初歩的な注意を母親も乳母も組織的に怠っていた。これは「家族内の子どもの数をふやさないための方法」だったのではないかという疑問をバダンテールは呈している。(同書、92頁)<br />
  883.  しかし、グリム兄弟が民話の採集を始めた一九世紀のはじめ頃から、「愛し合う家族」という近代的な家族概念が定着し始め、「子供を捨てる」話型をストレートに表現することに対する心理的な禁忌が働き始めた。こうして、「実母」は「継母」に書き換えられ、「子捨て」は「親が意図せず、偶然に、きわめて危険な状態に子供を放置してしまう」という屈折した話型を迂回することになった。『ホームアローン』はその意味で『ヘンゼルとグレーテル』の現代ヴァージョンとして解釈することができる。<br />
  884.  <br />
  885.  シェクターによれば、都市伝説は二つの要素から成っている。一つは人類全体に共通する「元型的な空想」あるいは「集合的無意識」である。もう一つは「特定の時代・場所における関心と不安」である。<br />
  886.  「元型的空想」と「歴史的・場所的に条件づけられた不安」とがリンクしてはじめて「ポピュラー」な都市伝説は成立する。そして、そのような都市伝説の機能はなによりも大衆の「抑圧された欲望」に「物語」としての表現を与えることにある。<br />
  887.  シェクターの仮説に基づいて私たちが以下で分析を試みる都市伝説は映画『エイリアン』シリーズ、すなわちリドリー・スコットの『エイリアン』Alien 1979、ジェームズ・キャメロンの『エイリアン2』Aliens 1986、ディヴィッド・フィンチャーの『エイリアン3』Alien 3 1992、である。(自注:この論考が書かれたのは1996年、まだジャン=ピエール・ジュネの『エイリアン4』Alien: Resurrection 1997は映画化されていなかった)。<br />
  888.  私たちが注目するのは、十三年間三作にわたるこのシリーズをつらぬく「不変の」元型的空想ではなく、むしろ映画を取り囲む社会感受性の「変化」である。</p>
  889.  
  890. <p> 『エイリアン』を構成している「元型的な空想」は「体内の蛇」という古典的話型である。次章で考察するが、その話型の意味するところを理解するのは難しい仕事ではない。しかし、私たちの「根源的な情を揺さぶる」その元型的話型が、ときどきの社会的感受性の変化に対応して、どのような現代的な恐怖譚に「書き換えられている」のかを特定することは、それほどには容易ではない。<br />
  891.  私たちはここでのシェクターの言う「歴史的・場所的に条件づけられた不安」は、アメリカにおける女性の社会的役割の変化によってもたらされたと考えている。このいささか唐突な着想の妥当性を論証するためには少なからぬ頁数が必要であるだろう。<br />
  892.  私たちはこの映画が、一九七○年代から九○年代のアメリカのフェミニズム・ムーヴメントの中で急速にその相貌を変容させてゆく女たちと、急変してゆく社会に対してアメリカの男たちが抱いた「関心と不安」を的確に映し出していると思う。そして、この「関心と不安」に培われた「欲望」がどのようにしてこの血なまぐさい物語群のうちに繰り返し回帰することになったのか、それをあきらかにして行きたいと思う。</p>
  893.  
  894. <p><br />
  895. 2・《体内の蛇》</p>
  896.  
  897. <p> 「体内の蛇」はひろく世界に分布した都市伝説元型の一つである。最も古いヴァージョンは16世紀に遡るというこの伝説の基本的なプロットは次のようなものである。<br />
  898.  不用意な行動(蛇の精液のついたクレソンを食べる。湖で泳いでいるときに蛙の卵を呑み込む。池のほとりで口をあけて昼寝をする)のせいで蛇(場合によっては蛙、山椒魚、蜥蜴)が人間の体の中に入ってしまう。蛇はそのまま体内で成長し、そしてあるとき食べ物の匂いにつられて食事中に喉を遡って口から出てくる。この最後の場面はしばしば人間に致命的なダメージを与える。<br />
  899.  よく知られたヴァリエーションの一つに1916年頃にイギリスでひろまった「蛙を呑み込んだ婦人」の話がある。蛙の卵を呑み込んでしまった婦人の胃の中で蛙が成長する。苦しくてたまらないが、蛙が動き回るので手術ができない。最後に思い余って婦人の舌にチーズを一切れのせたら、蛙がその匂いにつられて食道をのぼってきた。しかしそのために婦人は窒息死してしまう。<br />
  900.  リドリー・スコット監督の第一作『エイリアン』の衝撃的シーンはこの古典的都市伝説を忠実になぞっている。<br />
  901.  宇宙船ノストロモ号の7人の乗組員は地球への帰路、意味不明の信号を傍受して、発信地の星に降り立つ。そこで探検に出た乗組員たちは朽ちた宇宙船と化石化したエイリアンと無数の卵を発見する。一人の隊員が卵を調べようとしてかがみ込んだときに、卵の口が開いて中から異星人の幼体が跳び出し、彼の顔面にはりついてしまう。蜥蜴の尻尾を持つ蟹に似たこの幼体(Face Hugger)は意識を失った寄生主とともに宇宙船に入り込む。フェイス・ハガーは顔にはりついているだけでなく、体内に深く触手を挿入しながら、酸素を送り込んで寄生主を殺さないようにして一種の共生関係を作り出している。船長とサイエンス・オフィサーが電気メスではがそうとするが、フェイス・ハガーの傷口から流れ出る強い酸によって宇宙船の船体そのものが浸食され、それ以上手を出すことができない。<br />
  902.  やがてフェイス・ハガーは顔から自然に剥離し、枯死する。隊員は意識を回復する。回復を祝って食事が始まり、彼は猛然たる食欲を示すが、突然、強烈な腹痛のために痙攣し始める。そして全員におさえつけられた彼の腹を喰い破って第二段階への形態変化を遂げた蛇状のエイリアンが出現し、返り血を浴びて呆然としている乗組員を嘲笑うかのように奇声を発して姿を消す。<br />
  903.  映画を見たひとたちの多くが「最も衝撃的」としているこのエピソードはごらんのとおり、「体内の蛇」のモチーフをそのままに再現している。<br />
  904.  はじめに「不注意な行為」(「卵」に顔を近づける)があり、その結果「卵」が体内に送り込まれる。手術の試みは失敗し、最後に「食事の匂いにつられて」「蛇」が出現し、犠牲者は死ぬ。<br />
  905.  この元型的想像が何を象徴しているのかを推察することはそれほどむずかしい仕事ではない。<br />
  906.  体内に「蛇」の「卵」が入り込み、成長し、宿主の腹を膨らまし、最後に腹を破って出てきて、宿主を死に至らしめるという話型は、「蛇」が精神分析的に何を意味するかというようなことを詮索しなくても、「妊娠と出産」のメタファーであることは誰にも分かる。<br />
  907.  女性の意に反して(多くは「不注意」から)、男性という異物の「卵」(精液)がその体内に入り込む。それは成長し、腹を膨らませて母体を苦しめ、あげくに彼女に最初に暴力的に侵入した「蛇」のコピーを再生産させて、彼女を「殺す」。<br />
  908.  この元型説話は「生殖」という女性の生物学的宿命そのものに対する恐怖と嫌悪を表している。「母」とはどのように神話的に脚色しようと、つきるところ「男」が自己複製をつくるための「道具」にすぎないとこの物語は教えているのである。<br />
  909.  生殖に対する恐怖と嫌悪をあらわに示し、男性の自己複製の道具となることを拒絶することがきびしく禁圧されるとき、無意識の領域に追放された欲望は必ず「物語」を迂回して「検閲の番人」の監視をくぐり抜け、意識の表層へと回帰してくる。そのようにして「体内の蛇」の話型は誕生し、語り継がれてきたのである。<br />
  910.  リドリー・スコットが伝承的な話型を意識的に採用したのか、それとも「恐ろしいエピソード」を求めているうちに、無意識的に古典的な恐怖譚に回帰してしまったのか私たちには判定できない。しかしすぐれたストーリー・テラーは自分の個人的な無意識を集合的無意識と通底させる才能に恵まれている。<br />
  911.  その時代の観客が見たがっているもの(しかし抑圧されているもの)を感知するために必要なのは、無意識的な共感能力である。スコットがここで映像的に同調しようと試み、そしてそれに成功したのは1970年代末におけるアメリカ社会の、性関係にかかわる集合的無意識である。</p>
  912.  
  913. <p><br />
  914. 3・《性関係と映像》</p>
  915.  
  916. <p> 70年代のアメリカ映画に顕著に現れた一つの傾向について、フェミニズムの立場からE.アン・カプランはこう書いている。</p>
  917.  
  918. <p> 「70年代の終わりになると、もう一つの傾向が商業映画の主流に現れた。それははっきりと女性を観客対象とし、フェミニズム運動が提起した問題をとりあげようとする動きである。(…)これらの映画の内容を提供したのは、映画をとりまく社会的・経済的・文化的な要因である。すなわち女性の教育や雇用問題に生じた顕著な変化、女性解放運動や避妊の方法の普及がもたらした性関係・性意識の変化、そして結婚と離婚のあり方の変化、などである。(…)これらの映画は、女性の新しいあり方を受け入れる用意のまだできていない父権社会で、新しい役割を果たしはじめた女性たちが直面する問題、彼女たちの矛盾にみちた要求をとりあげ、描こうとしている」(4)。</p>
  919.  
  920. <p> これらのハリウッド映画に共通するのは、「新しい女性」たちが、当然ながら彼女のあり方を認めようとしない「父権制社会」の執拗な暴力にさらされるという状況設定である。<br />
  921.  女性の自立を阻止せんとする男性側からの暴力をリアルに描くのは、ある意味では「父権社会」の醜悪さを暴露するという「教化的」効果を持つだろう。<br />
  922.  70年代末のアメリカ映画は「よい意味では女性の要求をとり入れ、悪い意味でそれを懐柔する方向に動きだした」とカプランは認識している。<br />
  923.  79年作品である『エイリアン』は主人公にアグレッシヴな顎とボーイッシュで巨大な体躯の持ち主である新人女優シガニー・ウィーヴァーを起用した。それまでのハリウッド・スターのカテゴリーにはあきらかに収まらないこの女優は、「新しい女性」を描こうとする制作者の期待に応えて、フェミニズム興隆期におけるアメリカの若い女性たちの上昇的なはりつめた気運をみごとに表現してみせた。<br />
  924.  彼女の演じる宇宙飛行士リプリーは、その職責を誠実につとめ、つねに男性隊員に伍して労働し、パニックになっても冷静さを失わず、適切な仕方でエイリアンとの闘争を指揮し、結果的にただ一人の生存者として勝ち残る。この映画は女性主人公が、襲いかかる暴力に対して、男性保護者に依存することなく、また「女性的」奸智を駆使することもなく、ストレートな暴力にストレートな暴力を以て対処し勝利するという、ハリウッド映画にとって画期的なプロットを提供した。<br />
  925.  白馬の王子様の到来を待たず、自力で城を奪還する闘う「眠れる森の美女」。(最後の闘いのときリプリーが身にまとう宇宙服は騎士の鎧を象っている。)女性の自立を映像的にサポートするという点について言えば、『エイリアン』はたしかに「よい意味では女性の要求をとり入れ」た映画であると言えるだろう。<br />
  926.  しかし、「父権制社会」の剥き出しの暴力にさらされて戦うヒロインを描くことは、見方を逆にすれば、「父権制社会」に楯突く「生意気な」ヒロインが、父権制的な暴力にひたすら暴行され、凌辱され、その無謀な野心にふさわしい制裁を受ける映像を描くことでもある。<br />
  927.  全編が暗くじめついた宇宙船の中で展開する「ドラゴン&ドンジョン」型RPGにも似たこの武闘劇は、そのような意味では、フェミニズムへの応援歌にしては、あまりにも暗い情念をはびこらせている。おそらくそれは戦う「新しい女性」の不安と、それに脅威を感じている男性の不安の双方を投影した結果である。70年代末のアメリカ社会の性関係の未来に対する不安が全編を領している。そしてその不安の映像的な焦点となっているのが「体内の蛇」である。</p>
  928.  
  929. <p> 私たちはさきに「体内の蛇」の物語は、女性からする、「男性の自己複製の道具であることの拒絶」、つまり「妊娠と生殖への無意識的な忌避の欲望」の吐露であると書いた。だとすれば、フェミニズム映画としての『エイリアン』もまた「女性としての伝統的な社会的役割の拒絶」のメッセージを発信しているはずである。<br />
  930.  事実、『エイリアン』においてリプリーはよかれあしかれほとんど伝統的な女性の徴候を示さない。彼女は女性的コケットリーによって船内の雰囲気をやわらげようともしないし、男性隊員にコーヒーをいれもしないし、無原則な包容力も示さないし、男性隊員の誰に対してもいかなる性的な関心も示さない。リプリーはただ男たちと同じように不機嫌な顔で黙々とコーヒーを飲み、煙草を吸い、自分の仕事をするだけだ。エイリアンをダクトに追いつめるという危険な任務にも、当然のことのように志願するし、船長の死後は序列に従って指揮官となる。彼女は女性であることをいかなる免責事由にも用いない、女性であることからいかなる利益をも受けていない。<br />
  931.  ではリプリーは完全にニュートラルな存在として描かれているのかと言えば、決してそうではない。彼女はこの映画の中で二回「女性的」弱点を見せる。</p>
  932.  
  933. <p> 一回目はエイリアンを生きたまま持ち帰れという《会社》の指示に従って、乗組員を犠牲にしてもエイリアンを「保護」しようと企てるサイエンス・オフィサーのアッシュによって暴行を受ける場面。ここでリプリーは映画の中でただ一度だけ男性のすさまじい暴力に屈服する。<br />
  934.  見落としてはらない徴候は、このときアッシュが彼女を窒息させようとして、口の中に丸めた雑誌をねじ込もうとすることである。乱闘が行われるのは船内の食堂で、押し倒されたリプリーの後ろの壁には『プレイボーイ』風のヌード・ピンナップが貼りめぐらされている。アッシュは手近の男性誌をつかんで、それをリプリーの口にむりやり押し込む。<br />
  935.  丸めた雑誌を口に押し込むというのは、どう考えても窒息死させるために有効な方法ではない。これはむしろ象徴的に解釈されるべきだろう。あらゆる場面で女性らしくふるまうことを忌避しているかに映るリプリーに対して、ここで男性側からの「制裁」が加えられるのだ。<br />
  936.  丸められた男性雑誌は、50年代まではアメリカ男性の誰ひとりとしてその正当性を疑うことのなかった「女性を男性の性的愛玩物として消費する文化」を象徴している。リプリーが映画の中で一貫して踏みにじってきたのがこの時代遅れの性幻想であるとすれば、「男性」によって彼女の「口に挿入された」「男性誌」がその「父権的文化」の報復のかたちであることはほとんど論理的に自明である。(『エイリアン2』においても、《会社》の指示に従わないリプリーを黙らせるために、《会社》の代理人であるバークによって彼女の「口」に「凶器」が挿入される。いずれの場合も《会社》の大がかりな企業戦略を「告発」しようとするリプリーの「口」は擬似的なファルスによって封じられるのだ。)<br />
  937.  もう一つの彼女の女性的徴候は、母船を爆破して脱出するという最後の場面でリプリーが猫を探しに行くという致命的なミスを犯すエピソードに見られる。<br />
  938.  リプリーはここで映画の中でただ一度だけ情緒的弱みを見せる。爆破まで残り数分というせっぱ詰まった状態で、生き残った他の二人の乗組員が脱出に必要な酸素を荷積みするという緊急な作業に携わっている間、彼女は「猫を探している」のだ。<br />
  939.  「猫探し」に手間取ったためにリプリーは仲間二人の救出に間に合わず、脱出用シャトルにエイリアンが乗り込む時間的余裕を与えてしまう。それほどのリスクを冒してまで、リプリーは「猫探し」のために船室をはいまわり、みつけた猫を熱情的に抱き締める。いったいなぜ猫はこの局面でそれほどまでにリプリーを引きつけるのか?仲間と自分自身を危険にさらすどのような価値が猫にはあるのか?<br />
  940.  英語話者ならすぐに気づくことだが、「猫」(pussy)は俗語で女性性器を意味する。「忘れてきた「猫」を探しに戻る」という話型は、それまであえて忌避してきた女性性が、決定的局面に臨んだときにいたって、実は「かけがえのないもの」であったことにリプリーが気づいたことを意味している。「猫」は女性がいかに逃れようと望んでも決して逃れることのできない「セクシュアリティ」の記号である。<br />
  941.  ここでもまた映画はアッシュの暴行と同じメッセージを発信している。<br />
  942.  いかに女性性を拒もうとも、「決定的局面」に至れば、女性は「女であること」からは逃れられない。そして彼女が「女でしかない」ことを暴露するとき、「男の暴力」の前に屈服する他ないのである。</p>
  943.  
  944. <p>4・《母性の復権》</p>
  945.  
  946. <p> カプランはさきの書物でハリウッドを「ブルジョワ機構」と規定し、そこで生産される映画は「男性的利益」にもっぱら奉仕するものであって、女性に「どんな主張も可能性も欲望の充足も許さない制度」の中に彼女たちを幽閉するためだけに機能しているというかなり一面的なきめつけを行っている(5)。<br />
  947.  しかし、それでは現に女性観客がハリウッド映画に熱狂していることについて納得のゆく説明ができないだろう。映画はカプランが考えているほどに単純なものではない。(カプランがアメリカ映画について言うように、あるいはジュディス・フェッタリーがアメリカ文学について言うように、それらすべてが単なる「父権制イデオロギーのプロパガンダ」にすぎないのなら、彼女たちがなすべき緊急のことは、映画や文学「について語ること」ではなく、アメリカにおける映画や文学の生産と消費をただちに「禁止する」ことであろう。しかし、彼女たちもその禁止運動がアメリカ女性のマジョリティの支持を得る見通しがないことは分かっているのである。)<br />
  948.  実際には、大衆的な支持を集める映画はつねにアンビヴァレントな映画である。あるレヴェルで語られていることと、別のレヴェルで語られていることが平然と矛盾している、そのような映画にだけ、私たちは惹きつけられる。すぐれた物語は、ある水準における言語的メッセージは、必ず別の水準における非言語的メッセージによって「否定」される。<br />
  949.  敵役が十分に魅力的でなければ主人公の勝利は高揚感をもたらさない。流血の惨事がなくては平和の価値は分からない。戦争の悲惨さを伝えるためには戦争から快楽を得ている人間が描かれねばならない。世界が錯綜していること、あるものの快楽は別のものの不幸と背中合わせになっていること、私たちを惹きつける物語は、つねにそのような仕方で重層的である。<br />
  950.  『エイリアン』は「私たちを惹きつける物語」に必要なアンビヴァレントな構造を備えている。あるレヴェルで見ると、映画は七〇年代の女性観客に対して、新しいヒロインの誕生を告げ、女性の未来についての希望を語っているかに見える。しかし、別のレヴェルでは、その女性たちに対する「父権制社会」の側からの剥き出しの攻撃性が映像的に誇示されている。女性が「ドラゴン」と闘う話型は「フェミニズムを懐柔する」。他方「女性が女性的でなくなること」によって受ける制裁を映像的に飽食させることによって映像は「父権制的観客」の邪悪な欲望をも満たしている。『エイリアン』はその時代の欲望と不安をそのような仕方で映像的に定着することによって大きな商業的成功を収めた。</p>
  951.  
  952. <p> 『エイリアン2』は七年後の一九八六年に製作されたその続編である。この映画はその時代におけるフェミニズムの最大のトピックであった「母性」の評価についての同じくアンビヴァレントな社会的感受性を映像化して大きな成功を収めた。<br />
  953.  『エイリアン2』は前作の五七年後の未来が舞台となる。ノストロモ号最後の生存者リプリーは長い宇宙漂流の果てサルヴェージ・シップに救助される。《会社》はエイリアン襲撃という彼女の説明を受け入れず、彼女は飛行士の資格を剥奪され、身寄りも知人も死に絶えた未来社会で、肉体労働者として、夜毎エイリアンが自分の腹を喰い破って出現する悪夢にうなされながら暮らす。<br />
  954.  《会社》はエイリアンの卵が発見された星に宇宙植民地を建設していた。その植民地星が不意に通信途絶し、リプリーはアドヴァイザーとして宇宙海兵隊とともにその星を訪れることになる。<br />
  955.  植民地星ではひとりの少女をのぞいて植民者全員がエイリアンの卵を産み付けられた「フェイス・ハガー」の培養体に化しており、海兵隊もたちまち壊滅の危地に追い込まれる。再びエイリアンとの闘いを強いられたリプリーは、とらえられた少女を救出するために、無数の卵を生み続ける「女王エイリアン」にフル武装で対決する……。</p>
  956.  
  957. <p> この映画は母性についての対立する二つの対抗的な話型を繰り返す。<br />
  958.  劇場版ではカットされ、ディレクターズ・カットで回復した挿話によれば、リプリーには一人の娘がある。娘はリプリーが宇宙を漂流している間に六六歳で死んでいる。リプリーは「外で働いていたために」自分のただ一人の子供の人生に全くかかわることができなかったわけである。これは「母性が十全な機能を果たさなかった」マイナスの徴候と見なすことができる。<br />
  959.  一方、リプリーは植民地星で奇跡的に生き残った少女ニュートに強い母性的感情を抱く。エイリアンの襲撃からのただ一人の生存者であり、恐怖の経験を共有していることが二人を深く結びつける。リプリーとニュートの擬似的母子関係を描く場面で、リプリーは前作では「猫」に対してのみ示した情緒的な「甘い」表情を見せる。彼女がさまざまな危機からニュートを守り、最後に命がけでニュートを救出に敵地に乗り込むシーンがこの映画のハイライトだが、そこで高らかに歌われるのは「母の愛は海よりも深い」そして「母は強し」というほとんどメロドラマ的なメッセージである。<br />
  960.  これは、「子供を家に残して外へ働きに出て自己実現したい」という自立を求める気分と、「子供の保護をすべてに優先したい」という気分のあいだに引き裂かれて、いずれとも決めかねている八○年代アメリカ女性の内的葛藤をみごとに映し出している。<br />
  961.  そして、最終的に映画のストーリーラインは「子供を見捨てる」女性は罰を受け、「子供を守る」女性は報われるという、どちらかと言えばやや懐古的な母子関係に与しているかに見える。<br />
  962.  しかし母性の評価にかかわる映像記号はそれほど単純ではない。いま論じたのとは違うレヴェルにおいて、つまりリプリーと「女王エイリアン」の対立においては別様の「母子の物語」が語られているからである。<br />
  963.  巨大な「女王エイリアン」は植民地星の地下深くに営巣し、ひたすら卵を排出し続けるだけの生殖機械である。「女王」と遭遇したリプリーは火炎放射器で卵を残らず焼き払う。しかし「女王」は産卵管に繋縛されているために身動きならず、卵が破壊されるのを傍観するばかりで、それを阻止することができない。<br />
  964.  生殖に専念したために結果的に種族に壊滅的な被害が及ぶのを阻止できなかった「女王」。「家」に閉じこもって「育児」に専念していたために社会的能力を失ってしまった「母」。これは「過大評価された母子関係の否定的側面」を意味するだろう。<br />
  965.  産卵という任務から子供たちの死によって解放された「女王」は、ただ一人で侵略者リプリーと闘う。映画の最終場面で二人の「母」は一対一で激突することになるのだが、結果的には肉体労働の経験によって宇宙船内の機材の運用に習熟したリプリーが「女王」を船外に叩き出して勝負を決する。社会的スキルに習熟していない母性はここでも「働く女性」の前に一敗地にまみれる。<br />
  966.  表層における「母性賛歌」とはかなり矛盾する映像的なメッセージがここには盛り込まれていることが分かる。<br />
  967.  映画の中の母子関係とその記号的意味をもう一度図表化してみよう。<br />
  968. (1)「外で働いていたために、娘の死に目に会えなかった母親」であるリプリーは「母が外に働きに出て死んだために、ひとり放置された娘」であるニュートと擬似的な母子関係をもつ。(この説話群のメッセージは「母親が子どもを置いて外へ働きにでると、母子はともに孤独になる」である。)<br />
  969. (2)ニュートの墜落によって、リプリーたちは無用な危険を冒すことを強いられる。卵はエイリアンたちの集団の《弱い環》であり、産卵のために母親は身動きできず、そのため女王は焼死の危険にさらされる」。(この説話群のメッセージは「母子関係が緊密であると、母親は無用の危険に身をさらすことになる」である。)<br />
  970. (3)「娘の救出のためにリプリーは例外的に高度の戦闘力を発揮する」。「死んだ卵の報復のために女王は例外的に高度の戦闘力を発揮する」。(この説話群のメッセージは「母子関係が切り離されると、母親の戦闘能力は向上する」である。)<br />
  971. (4)「社会的スキルの運用に習熟したリプリー」が「情緒的に暴れ回る女王エイリアン」に勝利する。(この説話のメッセージは「外で働く母親は子供を幸福にする」である。)<br />
  972.  映像の記号はごらんの通り、さまざまな矛盾するメッセージを発信している。とはいえそれらのメッセージは均等に配分されているわけではない。劇場公開版においては、さきに述べたようにリプリーに娘がいたエピソードがカットされているばかりでなく、ニュートの両親が宇宙船探検にでかけてエイリアンを発見し、植民地星の全滅の要因を作るという部分もカットされている。つまり「外で働く母親は子供を幸福にしない」という説話的メッセージは「商業的な理由で」集中的に削除されているのである。(市場原理はつねに無意識的な淘汰圧として機能する。)<br />
  973.  一方、「母子関係が緊密であると、母親は危地に追い込まれる」というメッセージは「ニュートを寝かしつけるために添い寝しているうちにエイリアンの侵入を許してしまう」挿話や「ニュートが足を踏み外したために脱出のチャンスを逸する」挿話で執拗に強調される。<br />
  974.  そして「母子の別れ」は悲劇性を払拭され、むしろ劇的興奮を盛り上げるサスペンスとして功利的に活用される。「母子が密着していること」よりも「母子が離ればなれでいること」の方が生産的であり、母の能力開発にプラスであり、それが最終的には子どもの利益となるのだ、というメッセージが声高に叫ばれる。かくして、「外で働く女性」リプリーが「出産育児の専門家」である女王エイリアンを叩き潰して映画は終わる。<br />
  975.  ロビン・ロバートはこの映画が「二つの母性の葛藤」であることを正しく指摘した上で、これが「明確にフェミニズム的な映画」であると賞賛している。</p>
  976.  
  977. <p> 「キャメロンとハードによって提出された母性のヴィジョンは、確かに、女性の可能性を示し、母性の選択という新しい方法の実践によって、生物学から解放された女性のヴィジョンを示しているのである」(6)。</p>
  978.  
  979. <p> ロバートはエイリアンが象徴する「生物学的母性」とリプリー=ニュートの体現する「養子型母性」の葛藤のドラマとして映画を解釈し、後者のうちにフェミニズムの希望を見いだしている。<br />
  980.  『エイリアン2』が「対等なパートナーシップ」に基づいた「新しい母性の定式化」に成功したというロバートの結論は同意しがたいけれども、この映画が「仕事をしようか、それとも子どもと家庭にとどまろうか」逡巡していた八〇年代のアメリカ女性たちに向けて、「母親が仕事をすればするほど子どもは幸福になる」というたいへん耳に快いメッセージを送ったことは間違いがない。</p>
  981.  
  982. <p>5・《憎悪の映像》</p>
  983.  
  984. <p> 法規範と言語に象徴される父権制社会の秩序を脅かす「おぞましきもの」としてジュリア・クリステヴァは「女性的なもの」を定義した。</p>
  985.  
  986. <p> 「われわれが《女性的なもの》という言葉によって指示するのは、生来の本質といったものではなく、名をもたぬ《他者》である」。それは「三角形を形成する父による禁止の機能を突き抜けた果ての、命名しえない一個の他者性」である(7)。</p>
  987.  
  988. <p> 命名しえぬもの、象徴界に穿たれた根源的喪失、コーラ、ル・セミオティック、「文化という象徴的な構造に対する、言葉で表現できない絶大な自然の力」……ラカン的なジャルゴンで飾られたクリステヴァの「女性性」論は、第三世界論やマイノリティ論とシンクロナイズするかたちで七〇-九〇年代のフェミニズムに鋭利な理論的武器を提供してきた。しかし、この理論はややもすると通俗的な「母性」主義に再利用されかねない危険をはらんでいる。<br />
  989.  もしクリステヴァが言うように、母性がそれほどに父権制秩序を紊乱する潜在的な力を秘めているのであれば、父権制社会の転覆のためには、キャリア・ウーマンとなって男性に伍してばりばり働くより、家で子供との間に濃厚な情念的関係をはぐくんでいる方が有効であることになってしまうからである。<br />
  990.  そのような母性主導的環境に育った男の子たちがうち揃って「セリーヌ=アルトー」的な人格形成(崩壊?)を遂げたら、なるほど父権制社会はがらがらと崩壊するだろう。しかしそれは父権制社会の崩壊というより、「市民社会そのもの」の崩壊を意味するのではあるまいか?市民社会そのものが消滅することによって、女性たちはどんな利益を得ることができるのだろう?<br />
  991.  市民社会の消滅は望まないが、母性的なものの復権は望むということだとすると、それは要するに「父権制社会のサブシステムとして母性的なものを認知して欲しい」ということにすぎないのではないのか?母性的なものはただ「父権制」と葛藤することによってはじめて生成的なものとして機能するというのなら、母性的なものは、結局、「パートナー」としての父権制の永続を願うようにはならないのだろうか? <br />
  992.  これがフェミニズム本質主義に対する、ラディカルな反問のかたちである。 <br />
  993. モダン的な父権制イデオロギーを一蹴したあとのアメリカ・フェミニズムの次なる闘いは「実体化された女性性」という差異派フェミニズム思想の掃討戦であった。<br />
  994.  「多産な母」「自然な母」「地母神」的女性性、「アップル・パイと日向のにおいのするママ」の神話が一掃されなければならない。<br />
  995.  ロバートによれば、クリステヴァ的な母性(「象徴秩序の外に位置して」おり、「前言語的段階を表象する」母)は『エイリアン2』では「女王エイリアン」によって演じられている。リプリーはそれを殺すことによって近代的な意味での「女性性」の息の根を止めたことになる。<br />
  996.  「生殖」という行為に集約的に象徴される生物学的女性性に対するこの明確な否定が、八十年代中期以降のフェミニズムの新しい思潮を反映している。</p>
  997.  
  998. <p> 「女性を束縛しているのは、まさに彼女たちの〈女性性〉である(……)。だいたい、女性〈である〉などという状態じたいが、ほんらい存在してはいないのだ。それは性科学的言説や社会活動における論争史によって構築された複合カテゴリーにすぎない」(8)。</p>
  999.  
  1000. <p> 〈サイボーグ・フェミニスト〉ダナ・ハラウェイは一九八五年にそう書いた。</p>
  1001.  
  1002. <p> 「サイボーグとは、解体と再構築をくりかえすポスト・モダンな集合的・個人的主体(セルフ)のかたちだ。これこそフェミニストたちがコード化しなければならない主体のありかたなのである」(9)。</p>
  1003.  
  1004. <p> 女性性を実体めかして語るというみぶりそのものが、父権制のサブシステムとして機能している以上、女性性、アブジェクシオン、ガイネーシス、といった神話的コンセプトを支えにしては父権制は打倒できない。そう自覚する新しいフェミニズム的知見が80年代にこうして登場してきた。映画はそのような社会的感受性のシフトを直観的にとらえている。<br />
  1005.  だが「女らしさ」という社会的役割の拒否にとどまらず、「生殖」に象徴される生物学的女性性の拒否にまで踏み込んだ新しいフェミニズムの思潮に、当然のことながらアメリカ男性は深刻な危機感を抱いた。男たちはあらゆる種類の「女らしさ」を「歴史のゴミ箱」にこともなげに放り投げてゆく女たちに対して強い不安と恐怖を感じた。このような男性側の根深い不安とそこから分泌される強烈な悪意を映像的に表象してみせたのが『エイリアン3』である。<br />
  1006.  一九九二年のこの第三作は前二作に比べると、あまりに暗く、あまりに希望がない。それは全編にみなぎる「女性嫌悪」(misogyny)の瘴気のためである。<br />
  1007.  この映画で女性嫌悪はむろんフェミニストからすぐに指弾されるようなあからさまな仕方では表現されていない。それは隠微な仕方で、フェミニズムを「懐柔」し、それに「迎合」するような話型を通じて表現されている。<br />
  1008.  それどころか、ある意味で『エイリアン3』は「フェミニストの理想を描いた映画」であるとさえ言えるかも知れない。なぜなら、そこには伝統的な意味での女性はもう存在しないからだ。この世界の女性はこれまで女性に帰属させられてきたすべての特性を脱ぎ捨て、剥ぎ取られている。「女性であるなどという状態じたいが、存在してはいない」世界、「女性が女性であることを止めた世界」をこの映画は描いているのである。ただし、「悪夢」として。<br />
  1009.  映画はようやく脱出に成功した宇宙船が、潜んでいたエイリアンのために《会社》の所有地である囚人星に墜落するところから始まる。墜落で「娘」ニュートも海兵隊最後の生き残りヒックス伍長もアンドロイドのビショップも死ぬ。リプリー自身は冬眠中にエイリアンの卵を産み付けられた身体で一人生き延びてしまう。そして、二五人の性的凶悪犯と二人の看守だけが住む「男だけの星」でリプリーは三度エイリアンと闘うことになる。<br />
  1010.  この映画でのリプリーは絶望的なまでに孤立している。彼女にはもはや何もない。守るべき娘はいない。前作における戦友であったヒックスは死に、ビショップは破壊された。宇宙船には近代的な装備があり、エイリアンを吹き飛ばす武器も望めば手に入ったが、この囚人星には斧より他には武器もない。これまでは冷静な判断力や果敢な行動力を備えた男女のサポーターがいたが、囚人星にいるのは性的な重罪犯と無能な看守だけである。<br />
  1011.  これまであれほど懸命に闘ってきた女性が迎えるにしてはあまりに過酷な条件だ。しかしこの映画で冷遇されているのはリプリーの戦闘条件だけではない。これまでリプリーが体現してきた「女性性」のすべての指標もまた、この星では猛然たる攻撃にさらされることになる。<br />
  1012.  映画は「女性性なるものはあってはならない」というメッセージを繰り返す。<br />
  1013.  星に漂着したリプリーに対して所長は「この星は女性的なものが存在してはならない場所である」と告げる。この囚人星に収容されているのは「常習的・遺伝的な性犯罪者たち」である。「生まれついての性的暴力の愛好者たち」だけから構成される社会(これこそ父権制社会そのものだ)を自由に歩き回る女は暴力と災厄をもたらすだろう。じじつ彼女の出現は鎮静していた性幻想を解発し(リプリーは到着後ただちにレイプの洗礼を受ける)、彼女が「連れてきた」エイリアンは男たちをむさぼり喰う。女性の到来が「男たちだけの世界」に災厄をもたらしたのだ。<br />
  1014.  映画の冒頭でリプリーは「シラミが多いから」という不自然な理由で髪の毛を刈られて丸坊主にされる。ストーリー上の必然性がないのに、女優がヌードになる映画は数多いが、ストーリー上の必然性がないのに美人女優がスキンヘッドになる映画はたぶんこれが最初だろう。<br />
  1015.  女性の造形的な美しさに過剰な価値を賦与するのは父権制社会の特徴である。<br />
  1016.  「女は美しくあらねばならない」という威嚇的な要請は、女性を性的対象として眺めている暴力的な視線に裏づけられているとフェミニズム批評は主張してきた。それを拒むこと、わざと自分の生得的な造形的美貌を毀損することは、論理的に言えば、性的対象として賞味され玩弄することを拒絶することである。<br />
  1017.  「醜い主演女優」はその意味で画期的だ。女性の造形的な美、鑑賞用の美貌という抑圧的慣習に異議が申し立てられたのだ。もう女性が性的フェティッシュとして男たちのまなざしに捉えられることはない。<br />
  1018.  丸刈りの頭、充血した眼、ぼろぼろの囚人服のリプリーは病的な性的犯罪者たちにとってさえ、もうあまり魅力的ではない。それは映画の観客にとっても同じことだ。私たちは彼女が画面に現れない時間をさしたる欠落感なしにやり過ごすことができる。<br />
  1019.  映画の開巻に設定されたこの「ストーリー上必然性のない」断髪が暗示するように、この映画の中でヒロインは繰り返し制裁を受ける。髪を切るというのは女性の造形的な美しさに対する暴行である。フランスで対独協力者の女性が戦後髪を刈られた事実が示すように、女性の髪を刈るのは一種処罰的な含意を持っている。父権制社会の強要する「女らしさ」という抑圧的コードを一蹴した女は「失われたコード」の名において処罰されるのである。<br />
  1020.  第三作でリプリーはシリーズではじめてセックスをする。<br />
  1021.  リプリーは囚人星ただ一人の知識人である医師を相手に選ぶ。ただしこの性行為は、相手の疑念を封じ、相手から必要な情報を引き出すための一種のマヌーヴァーとして行われる。(かつてジェームス・ボンドが敵役の女性を篭絡し、情報を引き出すため性行為を活用したのと同じように。)<br />
  1022.  最初に誘うのはリプリーである。彼女は性行為の主導権を握っており、自分の欲望をコントロールしている。相手の医者は性行為を通じてリプリーに対してなんらかの支配力を手に入れるどころか、行為のあとすぐにエイリアンに喰われ、現れたときと同じようにあわただしく消えてしまう。「セックスがすんだら相手が痕跡も残さずに消滅してくれる」のが性行為の主導者にとって一種の理想であるとすれば、これは女性が久しく夢見てきた理想のセックスに他ならない。<br />
  1023.  「女らしさ」を拒絶した代償に、ヒロインは「理想の性生活」を手に入れる。情感も物語性も親密さも愉悦もない物理的な「セックス」。<br />
  1024.  リプリーはこの映画で「妊娠」する。彼女があれほど憎んできたエイリアンの幼体を身体に寄生させてしまうのである。《会社》の手に体内のエイリアンを渡さないためにリプリーはみずから溶鉱炉に飛び込む。映画は墜落して行くリプリーの腹を喰い破って蛇状のエイリアンの幼体が飛び出し、呱々の声とも断末魔の悲鳴ともつかぬ叫びをあげるところで終わる。<br />
  1025.  すでに検証したとおり、「体内の蛇」という『エイリアン』全編をつらぬく話型は「男性のエゴイスティックな自己複製欲望」に屈服することへの嫌悪と恐怖を伝えている。その屈折した感情がエイリアンとの闘争、あるいはエイリアンの卵の焼却といった物語的な迂回をたどって表現されてきたことは述べてきたとおりである。しかし『エイリアン3』において、妊娠と出産はもはや「物語的迂回」を経由することなしに、これ以上はないほどあからさまに「女性に対する性的攻撃とその拒否」として映像化される。<br />
  1026.  リプリーは冬眠中に「不注意」から体内にエイリアンの卵を注入されてしまい「妊娠」する。彼女に「自己複製」を託したエイリアンは種族的配慮から彼女には攻撃を加えず生かしておく。しかしリプリーはエイリアンが自分を殺さないことを逆用して、エイリアンを焼き殺し、エイリアンの「子供」を誕生前に殺害する。<br />
  1027.  リプリーを「妊娠」させたエイリアンとは要するに彼女の「夫」である。<br />
  1028.  『エイリアン3』において種明かしされたのは、エイリアンとは女性を妊娠させ、自己複製を作らせようとする男性の欲望の形象化に他ならないという事実である。リプリーとエイリアンとの闘いは要するに「妊娠したくない女性と妊娠させようとするファルスの闘い」だったのである。<br />
  1029.  考えてみれば、男性の本質を暴力的な侵入と見なすのはフェミニズムに基幹的な主張の一つであった。</p>
  1030.  
  1031. <p>「男性性のセクシュアリティの概念とは、女性性にとって暴力の介入と同義なのだ」(10)。</p>
  1032.  
  1033. <p> 『エイリアン3』はその主張をみごとに裏づけている。ただしフェミニストのテクストが事実認知的であるのに対して、映画のメッセージはむしろ行為遂行的である。この映画は男性性は本質的に暴力的であると「認知」しているのではなく、そう「宣言」しているのである。『エイリアン3』は「ファルスと闘う女性」の末路についての悪意にみちた予言である。<br />
  1034.  自立を求める女性、男の子供をはらむことを拒絶する女性は、徹底的にファルス的な暴力にさらされ、子供を失い、友人を失い、美貌を失い、性生活を失い、夫を殺し、子供を殺し、自分も死ぬことになるだろう。この映画はそう予言している。ファルスと闘う女性はすべてを失うだろう。これがこの映画の発信するあからさまなメッセージである。そして、この映画の作り手たちは自分たちがそのようなメッセージを発信していることをおそらく自覚しておらず、それがアメリカの男性観客の「悪夢」を映像化してみせたのだということにも、おそらく気づいていない。</p>
  1035.  
  1036. <p>6・《物語》のために</p>
  1037.  
  1038. <p> 『エイリアン』というSFホラーは全編が性的なメタファーに溢れている。H.R.ギーガーがデザインしたエイリアンの頭部の完全にファルス的な形態や、その先端の開口部から垂れ落ちる半透明の粘液、襲撃の直前にぬらぬらと「勃起」してくる突起を思い出せば、エイリアンが男性の攻撃的な性欲の記号であることははじめから分かっていたことだった。<br />
  1039.  どこからでも侵入し、不死身で、獲物の殺害と生殖しか念頭になく、《会社》の手厚い保護を受けたエイリアン。女性は「それ」とどう闘うべきかという切実で刺激的な主題をめぐって製作されてきたこのエイリアン・シリーズは、しかしながらここできわめてネガティヴで一面的な結論とともに幕を下ろした。<br />
  1040.  《会社》(この宇宙に遍在する全能の組織体はもちろん「父権制社会」のメタファーである)の指示に従わず、妊娠・出産・育児を拒否し、女性的な徴候を身にまとうことを忌避してきた罪科によってリプリーは「殺される」。男に従わない女は罰される。それが第三作が下した「教訓」である。<br />
  1041.  六000万ドルの制作費を投じたにもかかわらず『エイリアン3』は興行的には失敗し、批評も芳しくなかった。多くの批評家はこの映画の「ニヒリズム」と「寒々しさ」を指摘した。それが九〇年代アメリカの現実の性関係の「ニヒリズム」と「寒々しさ」をどの程度投影しているのか、私たちには分からない。<br />
  1042.  しかし六〇年代以降「右肩上がり」に推移してきたアメリカのフェミニズムに対して、アメリカ男性の側に根深い悪意がわだかまってきていること、そして「父権社会の規範を無視して自由にふるまう女たちのもたらす災厄」を描いた物語が近年集中的にマイケル・ダグラス主演で映像化されているという徴候は指摘しておく価値があるだろう。(『ローズ家の戦争』The War of the Roses,1989 『危険な情事』Fatal Attraction 1987、『氷の微笑』Basic Instinct 1992、『ディスクロージャー』Disclosure1994、『ダイヤルM』The Perfect Muder 1998 )マイケル・ダグラスはこれらの一連の映画で、当代のハリウッド・スター女優を次々と「殺し」、男性観客にカタルシスを味あわせた。(「殺された」のは、キャサリン・ターナー、グレン・クローズ、シャロン・ストーン、デミ・ムーア、グイネス・パルトロゥ) <br />
  1043.  このような映像に「女性嫌悪」の徴候を指摘することはむずしいことではない。その背後にひそむ欲望や不安を暴露することも、それについて教化的な言説を編むことも、場合によってはそのような表現の規制を求めることもできないことではない。(『氷の微笑』に対しては上映禁止運動が試みられた。)しかし、そのような非難、批判、告発、暴露、断罪といったみぶりをいくら繰り返そうとも、「抑圧された悪意」はそれをより巧妙に隠蔽する別の物語を迂回してゆくだけで消失するわけではない。<br />
  1044.  私は『エイリアン3』は駄作であると思うが、その理由は映画が「女性嫌悪」的だからではない。(前二作においても父権制社会における「新しい女性」への処罰という話型は繰り返されていた。)第三作が駄作なのは、それが「女性嫌悪」というメッセージ「しか」発信していないからである。<br />
  1045.  単一のメッセージしか伝達できない物語は質の低い物語である。(それは「プロパガンダ」にすぎない)。矛盾するメッセージを矛盾したまま、同時に伝え、読みの水準を換えるたびに、そのつど別の読み筋が見いだせるような物語は「質の高い物語」である。<br />
  1046.  「質の高い物語」は私たちに「一般解」を与えてくれない。その代わりに「答えのない問題」の下に繰り返しアンダーラインを引く。私たちは「問題」をめぐる終わりのない対話、終わりのない思索へと誘われる。<br />
  1047.  大衆芸術としての映画はそのような仕方で現実的な矛盾を矛盾のまま提出し、その「解決」を宙づりにし、「最後の言葉」を先送りしてきた。もしマルクスが20世紀に生きていたらきっと「映画は人民の阿片である」と言っただろう。マルクスが言わなければ私が代わりに言ってもいい。「映画は人民の阿片である」。<br />
  1048.  しかし私たちの欲望や不安はつきるところ「物語」として編制されており、それは「物語」として紡がれ、また解きほぐされてゆくほかないのである。<br />
  1049.  私たちが映画に望んでいるのは「最終的解決」ではない。ラストシーンに私たちが見たいのは to be continued の文字なのである。</p>
  1050.  
  1051. <p><br />
  1052. 『ジェンダー・ハイブリッド・モンスター』</p>
  1053.  
  1054. <p><br />
  1055. 1・抑圧されたことば</p>
  1056.  
  1057. <p> ある祝賀会の席で「それではみなさん、上司の健康を祝して乾杯(anstoβen)しましょう」と言うべきところで、「げろを吐きましょう(aufstoβen)」と言ってしまった紳士の話をフロイトは『精神分析入門』の冒頭で紹介している。<br />
  1058.  私自身もこれと似た経験をしたことがある。むかし、ある中堅予備校(Cゼミナールという名前だった)の講師をしていたとき、講師慰労会の席で、理事長が「駿台、代々木ゼミナール、河合塾による全国の予備校系列化に抗して戦おう」と檄を飛ばしたあと、予備校界では高名なある老講師が乞われて乾杯の音頭をとった。そして笑みを浮かべつつ「それでは代々木ゼミナールのますますのご発展を祈念して」と祝杯をかかげたのである。会場は氷のような沈黙につつまれた。老講師は誰も唱和してくれないので、しばらくぼんやりしていたが、やがて誤りに気づいて、よろよろと壇から降りた。<br />
  1059.  これらの事例が教えてくれるのは、私たちは「言い間違い」を通じて自分の「本音」を語るということである。「げろ」紳士は「上司にげろを吐きかけてやりたい」と願っており、老講師はただしくCゼミナールの没落を予見していた。しかし、この本音はいずれも彼らの社会的立場と整合しないので抑圧される。抑圧された「本音」は、ちょうど堰き止められた水流が別の水路を迂回して流れ出すように、夢、妄想、神経症、あるいは「言い間違い」のような「症候」として再帰することになる。</p>
  1060.  
  1061. <p> 「症候とは抑圧によって阻止されたものの代理物である。」(1)</p>
  1062.  
  1063. <p> こんにちのアメリカ社会はハリウッド映画に対して法外なほどの「政治的な正しさ」(politically correctness)を要求している。女性差別、人種差別、民族差別、宗教差別、障害者差別、あらゆる種類の差別は許すべからざる社会的不正として断固として映画から追放されねばならない。アメリカというのは、このような「正義の要請」が空疎な訓話にとどまることなく、ヘイズ・コードや州単位でのカットや上映禁止といった具体的な圧力を通じて、映画製作そのものに効果的に関与してきた国である。したがってアメリカのフィルムメーカーは、「儲かる映画を作れ」とせっつく製作者や「面白い映画を見せろ」と騒ぐ観客に加えて「ポリティカリーにコレクトな映画を作れ」という知的な批評家からの要請にも応えてゆかなくてはならない。おそらく世界でハリウッド・メジャーのフィルムメーカーほど過酷な社会的圧力のもとで仕事をしている人々はいないだろう。<br />
  1064.  しかし、いかにコレクトなフィルムメーカーとはいえ、必要以上に立派にふるまえば、それだけ抑圧するものは多くなり、表現を拒まれた欲望や不安は「症候」として映像に回帰することになる。これらの「症候」は、表層的にはポリティカリーにコレクトな設定で展開する映画の周縁あるいは細部に、ストーリーともテーマとも関係のない映像記号としてさりげなく露出している。それは主要人物の背景にかすむぼやけたシルエットであったり、登場人物の人名や地名であったり、背景の装飾や小道具であったり、誰も聞いていないBGMであったりする。それらの記号はそれ自体としてはほとんど意味をなさない。ただ「なんとなく場違い」であったり、「なんとなく執拗」であったり、「なんとなく過剰」であったりする、という仕方で標準値から差異化しているだけである。<br />
  1065.  映画のイデオロギー性の査察を専門にする知的な批評家たちは、映画のプロットや主題や主人公の性格設定や監督のメッセージなどに焦点を合わせて映画を「批評的に」見る。彼らはスクリーンの「背後」にあるメッセージや、「隠された主題」の検出に選択的に意識を集中させている。<br />
  1066.  それに対して、ふつうの観客は、映画のテーマにもストーリーにも登場人物の内面にもほとんど関心を持たない。彼らはただぼんやりとスクリーンをながめている。けれども映像の背後を見透かす集中力に欠けている代わりに、彼らは映像の表層に露出する症候には敏感である。これについてはジャン・ポーランが『タルブの花』に含蓄深い言葉を書き残している。</p>
  1067.  
  1068. <p> 「ある種の光は、それをぼんやり見ている人には感知できるが、凝視する人には見えない。ある種のみぶりは、なんとなく力を抜かないとうまくやり遂げられない。(例えば星を眺めるときや、手をまっすぐに延ばすときがそうだ。)」(2)</p>
  1069.  
  1070. <p> ドイツ軍の検閲下にガリマール書店から刊行された『タルブの花』で、ポーランは「政治的メタファーを駆使して、文学を語っている」かのように偽装しつつ、実は「政治用語を駆使して、政治を語る」というアクロバシーを堂々と演じてみせた。巻末のこの一節でポーランは自著の読み方を読者に教えているのだが、メタファーを深読みした文学通の検閲官は、これが反ドイツ的な政治パンフレットであることに最後まで気づかなかった。<br />
  1071.  ほんとうに言いたいことは表層に露出している。映画についてもたぶん同じことが言えると私たちは思う。ぼんやりした観客だけが見つけられ、目を凝らしている批評家が見落とすものがある。<br />
  1072.  ジェンダーとエスニシティにかかわる倫理コードが八〇-九〇年代のハリウッド映画にとって「検閲」として機能していることは否定しようのない事実である。女性差別と人種差別にかかわる「本音」をスマートなフィルムメーカーは決して語らない。攻撃的な性的欲望や女性嫌悪あるいは非白人種に対する差別は「自己検閲」によって周到に排除される。だが、抑圧された心的過程は消え失せたわけではない。それは症候として必ず映像の表層に回帰する。</p>
  1073.  
  1074. <p>2</p>
  1075.  
  1076. <p> 私たちはさきに『エイリアン・フェミニズム』という題名の論考において、一九七九年から一九九二年にかけて製作され、大きな商業的成功を収めた『エイリアン』シリーズ三作を物語論の視点から分析した。そのとき、私たちはこの連作の中心にあるのは、「体内の蛇」という説話的原型であるとするハロルド・シェクターの仮説から出発した。(3)<br />
  1077.  一九七〇年代の終わりにこの説話原型は『エイリアン』として蘇った。この「体内の蛇」話型の復活はアメリカにおけるラディカル・フェミニズムの興隆期と同調していた。夫に仕え、不払いの家内労働を担い、子供を産み、育てるために存在するような依存的な生き方を否定し、自己実現のために自立して生きたいという強い指向がこの時期のアメリカ女性のあいだにみなぎった。だから、「自立する女性」リプリーが男性の自己複製欲望の記号である「蛇の怪物」とただひとりで戦い、それに勝利する物語は、当時のアメリカ女性の自立志向のたかまりにジャスト・フィットしたのである。<br />
  1078.  エイリアンが表象する男性の攻撃的性欲と女性はどう闘うか。この切実で刺激的な主題をめぐってシリーズは製作されてきた。そしてそれは同時に、フェミニズムの「検閲」によって抑圧された男性の性的欲望と、激しい女性嫌悪が、つぎつぎと「偽装」のうちに再帰する、プロテウス的変身の歴程もあった。</p>
  1079.  
  1080. <p>3</p>
  1081.  
  1082. <p> 『エイリアン』はプロットの上では、フェミニズムの「検閲」をクリアーするきわめてコレクトな映画であるが、その一方で、エイリアンの造型にはっきり見て取れるように、映像的な水準では、男性の「インコレクト」な性欲があからさまに、執拗に描き出されていた。<br />
  1083.  サイエンス・オフィサーのアッシュがリプリーに暴行をふるう場面では、「セクシスト的空間」の中で、彼女の口に擬似的な男性器「挿入」されるし、半裸のリプリーを攻撃するために身を起こすときのエイリアンの頭部のシルエットはあからさまに勃起した男性器をかたどっていた。アンドロイドであるアッシュも、エイリアンも「男性」ではない。だからプロットの水準では、これらのシーンが性的攻撃を「意味する」ことはありえない。しかし、「ぼんやり映画を見ている」男性の観客は、彼らの抑圧された攻撃的性欲を直接的にみたすのに十分エロティックな映像的表現をあやまたずスクリーンの上に見出すことができたのである。</p>
  1084.  
  1085. <p> 『エイリアン2』は成功した「女性映画」(少し意地悪く言えば「女性観客から金を搾り取る映画(feminine exploitation movie)」)だった。この映画はフェミニズムの対立する二つの陣営(ラディカル・フェミニズムとフェミニズム本質主義)から課された二種類の「検閲」をのがれるために、両方の要請に同時に応えるというアクロバシーを演じてみせた。<br />
  1086.  この「二つのフェミニズム」の葛藤は、八〇年代に入って、「フェミニズム本質主義」というあらたな思潮が出現したことに始まる。フェミニズム本質主義とは、女性性を本質的なものとして認め、その逆説的優位性を説く立場である。<br />
  1087.  フェミニズム本質主義によれば、女性は「帝国主義国家対植民地」、「抑圧者対被抑圧者」、「中心対周縁」、「文明対自然」といった二項対立図式の、後の項に固定される。女性は被搾取者であり、被抑圧者であり、踏みにじられた大地であり、汚された母なる自然である。それゆえ、女性は(かつてプロレタリアートや民族解放闘争の戦士がそうであったように)その政治的な負性の代償に「正義」の請求権を手に入れる。<br />
  1088.  「差別されてきたものだけが弱者の痛みを理解できる」、「周縁に排除されてきたものだけが制度への異議申し立てを行いうる」といったツイストの利いたロジックによって女性性の優位を説いたこの理説は(イリガライ、クリステヴァらの「フランス・フェミニズム」に理論的に依拠しつつ)八〇年代のアメリカにおいて、それまで過度に貶められてきた母性や育児や家事労働や家庭の価値の見直しへと女性たちを導くことになった。<br />
  1089.  上野千鶴子によれば、この「転向」をもたらした理由のひとつは、ラディカル・フェミニズムの担い手たちがこの時期に「母になる生物学的タイムリミット」を迎え、「七〇年代にはキャリアの確立を優先した女性やレズビアンの女性たちが、八〇年代になって三〇代のかけこみ出産ブームをつくった」ことにある。「彼女たちは男性との関係には希望を抱いていなかったが、母性の価値を捨てようとは思わず、八〇年代アメリカのフェミニズムは母性と家庭の価値の再評価に向かった。」(5)<br />
  1090.  <br />
  1091.  キャリア指向か家庭回帰か?八〇年代フェミニズムが直面したこの緊急な問いに『エイリアン2』はみごとな映像的回答を提出して、大きな商業的成功を収めた。<br />
  1092.  キャメロンは二種類のフェミニズムから課された「検閲」を同時にクリアーするという離れ業を演じつつ、『エイリアン』の場合と同じく、男性観客のためのささやかな悪意のスパイスを映像の細部に仕掛けてみせた。『エイリアン2』は、どちらにせよフェミニストが手に入れられた「家庭」がどのようなものでありうるか、そのモデルを映画のラストで映像化してみせる。それは「母親」でありかつ「キャリア・ウーマン」であるリプリーと、そのレプリカであるニュートが作る疑似的母子関係に二人の「不能の男性」を配した聖家族である。<br />
  1093.  マイケル・ビーン演じるヒックス伍長は外見的にはマッチョであるが、断片的な映像が繰り返し示すとおり「視る能力のない」男である。彼は「暇さえあれば眠る男」として登場する。エイリアン掃討戦のあいだ彼が口にする言葉は「どこにいる!見えない!」であり、医務室でエイリアンに襲われたリプリーが救援を呼ぶときにはモニターを見落とし、リプリーと女王エイリアンの戦いのときには麻酔を打たれて眠っており、映画の最後の人工冬眠器に収まるシーンでは目を包帯に覆われて横たわっている。<br />
  1094.  ヒックスについてまわるこの執拗なまでの「視る力の欠如」は「不能」の記号と解釈することができる。フェミニズム映画論の文脈では、「視る」とは「支配する」の同義語であり、「女性を見る男性の視線」―「三重の男性的視線」(triple male gaze)すなわちカメラの眼、俳優の眼、観客の眼―は窃視的暴力そのものであるとされる。だとすれば「視ることのできない男」ヒックスの男性性は映像的に「去勢」されていたことになる。<br />
  1095.  アンドロイドのビショップ(ランス・ヘンリクセン)も別の意味できわだって「非男性」的な存在である。彼は無性の人造人間であり、その男性的外見は単なる仕様にすぎない。彼はクルーの全員から「無償の労働」と「死を顧みない献身」を当然の仕事として期待されており、その卓越した遂行能力を評価し感謝するものは(映画の最後でのリプリーを除いて)一人もいない。ビショップが担っているのはまさに「不払い労働」であり、彼の労働が「不払い」であるのは、その生産物に交換価値がないからではなく、単に彼が「低い序列」に類別されているからにすぎない。つまり、ビショップは外見的には「男性」だが、その社会的役割は完全に「女性ジェンダー化」しているのである。それゆえ、その宿命にふさわしく、ビショップは女王エイリアンの男根状の剣尾で深々とさし貫かれて、引きちぎられることになる。フェミニストたちにとっての「理想」の家庭、それは非血縁的=同志的な母子関係に「不能の男たち」がからみつくようなかたちで構成されるだろうと『エイリアン2』の図像学は告げている。</p>
  1096.  
  1097. <p>4・<br />
  1098.  <br />
  1099.  八〇代中盤からフェミニズムは再び変貌を遂げた。それは女性性を実体めかして語ったフェミニズム本質主義への鋭い批判として語り出されるのだが、それを準備したのは医学上の新たな知見であった。<br />
  1100.  それまでのフェミニズムはジェンダーという文化的性差を痛烈に批判しながら、セックスという生物学的性差は価値中立的な事実としてそのままに受け容れてきた。しかし、内分泌学は、男女の性別というデジタルな性差は、実は性ホルモンの分泌量というアナログで連続的な変化の途中に恣意的に引かれた境界に他ならないという考え方を私たちに伝えた。同じように、解剖学は外性器についても二項対立的な性差は存在せず、誕生後に外性器が矮小化したり、肥大化したりすることはまれでないし、両方の性器が発達するandrogynousも存在することを教えている。いずれの水準でも、自然界に見られるのは、多様性と連続性だけであり、デジタルな性差なるものは科学的事実としては存在しない。セックス・ボーダーは人間の作り出した仮象にすぎなかったのである。<br />
  1101.  では、なぜセックスはそれにもかかわらず、これまで「自然な」二項対立として観念されてきたのだろうか?<br />
  1102.  性同一性障害という事例がその問いに答えの手がかりを与えてくれた。<br />
  1103.  性同一性障害とは、自分の生物学的セックスとジェンダー・アイデンティティが一致しない症候のことである。仮に生物学的には「男性」であると認定された人が、ジェンダー・アイデンティティとしては「女性」を自認している場合、この違和感を解決するには二つの可能性がある。「あっちへ行く」か「こっちへ戻る」かである。さて、「彼」はどちらを選ぶだろう。セックスに適合すべく「男性として生きる」ことに努めるか、ジェンダーに適合すべく「女性として生きる」ことか?<br />
  1104.  臨床例が教えてくれるのは、ほとんどの性同一性障害者は、自分のセックスに違和を覚え、異性のジェンダーに親和するという事実である。多くの性同一性障害者は、性器切除や造膣術など高額の出費と苦痛をともなう身体加工手術に耐えてまで、異性のジェンダーに自分をなじませる道を選んでいる。つまり、文化的な制度であるジェンダー・アイデンティティは生物学的セックスに優先するのである。<br />
  1105.  私たちは『とりかへばや物語』から『ベルサイユのばら』まで、ジェンダー・アイデンティティのゆらぎにかかわる多くの物語を持っている。それらの物語が教えてくれることもまた、性同一性障害者の事例と一致する。それは、個人のレヴェルでは、どのジェンダーを選ぼうとも、いずれかのジェンダーを選んだものは必ずジェンダー構造の強化に奉仕するということである。<br />
  1106.  性差の境界を超越する者は、「男」を選ぶときは、因習的な仕方で男性的となり、「女」を選ぶときは因習的な仕方で女性的となる。おのれを閉じ込めているジェンダーの壁を超えようとするものは、「壁の反対側」に安定的に帰属することを望んでいるのであって、壁の解体を望んでいるわけではない。ジェンダーに関する限り、「越境」によって壁は破壊されるのではなく、強化されるのである。<br />
  1107.  かかる知見に準備された知的風土から出発して、フェミニズムの刷新を果たしたのがクリスティーヌ・デルフィである。ジェンダー・アイデンティティにおいて、ジェンダーがセックスより優位であるのは、セックスという概念それ自体がジェンダーによって事後的に作られた仮象だからであるという大胆な仮説をデルフィは立てたのである。</p>
  1108.  
  1109. <p> 「手短に要約するならば、私たちはジェンダー―女性と男性の相対的な社会的位置―がセックスという(明らかに)自然的なカテゴリーにもとづいて構築されているのではなく、むしろジェンダーが存在するがために、セックスが関連的事象となり、したがって、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える。(…)私たちは抑圧がジェンダーをつくりだすと考える。つまり、論理的には、分業の階層的序列が技術的分業に先立って存在していて、この序列が技術的分業、すなわちジェンダーと呼ばれる性的役割をつくりだしたのだと考える。そして、人間の階層的な二分割が解剖学的差異を社会慣行に適合した区別に変化させるという意味において、今度はジェンダーが解剖学的セックスをつくりだしたのである。社会慣行が、しかも社会慣行のみが、一つの自然的事象を思考カテゴリーに変化させるのだ。」(6)</p>
  1110.  
  1111. <p> デルフィによれば、社会の二極への分割は(そう信じられているのとは逆に)階層分化→分業→ジェンダーの差異化→セックスの差異化という順に進んでいる。生物学的性差は差別の「起源」ではなく、「階級」社会のイデオロギー的「産物」だったのである。<br />
  1112.  一読しておわかりだろうが、フェミニズムにおける最新の知見は、意外なことに、私たちの世代にとってはきわめて「懐かしい」語法で綴られている。デルフィはフェミニズム本質主義のイデオロギー性を批判してこう書いている。</p>
  1113.  
  1114. <p> 「自然界との関係というものは存在しない(…)人間どうしの関係を事物どうしの関係あるいは事物との関係に見せかけるというのは、ブルジョワ・イデオロギーの明白な特徴である。」(7)</p>
  1115.  
  1116. <p> 『ドイツ・イデオロギー』にはこう書かれている。</p>
  1117.  
  1118. <p> 「諸個人が彼らの生活を表出する仕方は、すなわち彼らが存在する仕方である。したがって、彼らが何であるかは彼らの生産に、すなわち彼らが何を生産するか、ならびにいかに生産するかに合致する。」(8)</p>
  1119.  
  1120. <p> この文章の「彼らが何であるか」を「彼らの(ジェンダーが)何であるか」と書き換えれば、マルクスの命題はそのままデルフィの命題に一致する。<br />
  1121.  あるいは、「分業とともに、精神的活動と物質的活動が―享受と労働が、生産と消費が別々な個人の仕事になる可能性、いな現実性が与えられる。(…)それらが矛盾におちいらずにすむ可能性はただ分業がふたたびやめられることのうちにのみ存する」(9)という一節の中の「個人」を「ジェンダー」に書き換えても同様である。<br />
  1122.  デルフィにおいて、フェミニズムはいわば一五○年かかってマルクスに回帰したのである。デルフィのマルクス主義的フェミニズムによれば、ジェンダーは階級社会に起因するものであり、それゆえジェンダーの廃絶は階級社会の廃絶と同時的に達成される。(レーニンを信じるなら、それは「ブルジョワジーの暴力装置である国家の廃絶」をも意味するだろう。)事実、デルフィはこう断言している。<br />
  1123.  <br />
  1124. 「さしあたり言えるのは、家父長的生産・再生産システムが廃絶されないかぎり、女性は解放されないだろうということである。このシステムは(どんなふうに生じたにしろ)現に知られている社会すべての中核をなしているのだから、女性の解放のためには、現に知られている社会すべての基礎を完全にくつがえす必要がある。この転覆は革命なしには、すなわち、現在他の人間に握られている、私たち自身を支配する政治的権力を奪取することなしには実現できない。」(10)</p>
  1125.  
  1126. <p> 美しいほど明快だ。ここにはもう女性性や母性についての幻想はあとかたもない。性にかかわるすべてのイデオロギー的仮象は消え失せ、主人と奴隷の間の剥き出しの権力闘争という社会関係だけが残る。<br />
  1127.  この政治的・唯物論的フェミニズムを通じて、アメリカ映画は「フェミニズムの顔をしたマルクス主義」のつきつける知的・倫理的な「検閲」に直面することになった。およそ知的であろうと望むフィルムメーカーはこの「検閲」をクリアーする映画を作らなければならない。<br />
  1128.  さいわい唯物論的フェミニズムのひとつのトピックが製作者の投資意欲と監督の作家的想像力を刺激した。それは「デジタル・セックスのアナログ化」というSF的仮定である。ジェンダーが解体し、二極的セックスが無効になるとき、私たちの眼前にはおそらく人類がこれまでに見たこともないアモルファスでカオティックな「連続体としてのセックス」が展開するに違いない。『エイリアン3』と『エイリアン4』はこのSF的想定から生まれた。</p>
  1129.  
  1130. <p><br />
  1131. 5</p>
  1132.  
  1133. <p> 「検閲」に対するもっとも常套的な反抗は、「過剰に迎合」してみせることである。『エイリアン3』において、女性嫌悪はフェミニズムを懐柔し、それに迎合する話型を通じて吐露された。ここで描かれたのは、因習的な意味での女性ジェンダーがもはや存在しない世界、「女性が女性であることをやめた世界」である。リプリーはそれまでの二作で彼女にまとわりついていたわずかばかりの女性性をことごとく剥ぎ取られる。<br />
  1134.  リプリーはこの作品の中ではじめてセックスをするが、その場面からエロティックな要素は周到に排除されている。囚人たちによる未遂に終わるレイプは性的欲望よりもむしろ憎悪によって駆動されており、合意の上のセックスは二人の痩せた病人が寝ているようにしか見えない。<br />
  1135.  もし男性の欲望を喚起することが女性の性的「魅力」であると解釈するのが因習的なジェンダー構造の特性であるとしたら、この映画はみごとにそれを無効化することに成功した。リプリーはこの映画の中で、いかなる意味においても「魅力」的ではないからだ。彼女は囚人星の全員にとって最初から最後まで「厄介者」「嫌われ者」であり、この映画の中で彼女が説明や助力を求めた相手は例外なしに(ゴミ捨て場にうちすてられたビショップの残骸までも)その申し出を拒絶する。<br />
  1136.  リプリーが彼女を「妊娠」させたエイリアンを焼き殺し、胎児を「中絶」し、溶鉱炉に身を投じて映画は終わる。ある研究者によれば、この結末は映画文法的に予見可能であったということになる。というのは、「子どもの扶養者は決して死なない」ということと「純潔でない女はモンスターに殺されてもしかたがない」はハリウッド・ホラーの不文律だからである。<br />
  1137.  『エイリアン2』の終幕で、「リプリーは母であり(負傷し、無力な海兵隊員ヒックスの)『妻』の資格で生き延びたわけである。『本当の女』は生きる。なぜならハリウッドは子どもが母親の保護を受けずにいることには耐えられないからである。」(11)<br />
  1138.  リプリーが生き延びたのがその理由によってであったとすれば、保護すべきニュートと死別し、医師と性交し、エイリアンの「子ども」を「中絶」したリプリーに生き延びるチャンスがあるはずはなかった。<br />
  1139.  『エイリアン3』は「女性性の否定」というフェミニズムのラディカル化に寄り添うような設定をしつらえながら、実際にはそのような趨勢への嫌悪感をあからさまに映像化したためにきわめて後味の悪い映画に仕上がった。<br />
  1140.  しかしハリウッドはSFホラー+フェミニズム映画という、シリーズが開拓した有望なマーケットをこんなふうに消滅させるわけにはゆかなかった。「デジタル・セックスの解体」はもう一度希望の語法で語られなければならない。かくしてハリウッドは死んだ主人公を秘術を尽くして蘇生させ、『エイリアン4』を世に送ることになったのである。</p>
  1141.  
  1142. <p>6</p>
  1143.  
  1144. <p> リプリーが溶鉱炉に身を投じてから二〇〇年。死体から採取された血液と体組織の断片から抽出されたDNA操作によってエレン・リプリーは「復活」する。<br />
  1145.  宇宙船オリガ号の中の実験室でリプリーを死から呼び戻した科学者たちの狙いは、死の直前に彼女に「寄生」し、誕生をまぢかにしていた女王エイリアンの胎児を蘇生し、摘出することである。宇宙船の指揮官ペレス将軍は、リプリーの胸部を「帝王切開」して取り出された女王エイリアンが産卵するエイリアンたちを訓練し、宇宙最強の生物兵器として編制するという野心的な計画を抱いている。実験用に生かされることになったリプリーは、エイリアン遺伝子の影響で、異常なスピードで成長をとげ、超人的な運動能力を発揮するようになる。<br />
  1146.  エイリアンたちはやがて檻を破り、乗組員たちは次々と惨殺される。混乱の中でリプリーは、エイリアンの「餌」を密輸してきた海賊たちとともに宇宙船内を脱出艇めざして彷徨する。そしてエイリアンの営巣地に迷い込んだリプリーは、そこで人間とエイリアンの遺伝子をあわせもった新世代エイリアンを出産しようとしている女王エイリアンと対面することになる……<br />
  1147.  誰にでも分かるように、第四作の主題は「雑種」(ハイブリッド)である。印象的な登場「人物」の多くは雑種である。リプリーと女王エイリアンが産み出した新生命体(Newborn)はともにエイリアンと人間の「混血」である。リプリーを暗殺するために海賊船に乗り込んできたコール(ウィノナ・ライダー)は女性型アンドロイド、海賊船の技師ヴリスは人間と機械のハイブリッド、地獄巡りをともにする「エイリアンの餌」用人間ラリーはすでに腹の中にエイリアンを仕込まれている。ここでは人間と異星人、人間と機械の間の境界は限りなく曖昧である。<br />
  1148.  映画の主人公の二人の「女性」、リプリーとコールは、厳密には「女性」でもなければ「人間」でもない。コールは人間の感情と思考パターンをインプットされた(「人間よりも人間的な」)アンドロイドであり、リプリーはエイリアンを受胎したまま死んだ女のクローン、つまり人間とエイリアンの二種族双方の遺伝情報を組み込んだ雑種生命体である。<br />
  1149.  「人間であり同時にエイリアンである」というリプリーの設定はこのシリーズ固有の文法に従って解読すれば、「女であり、同時に男である」生命体を意味する。父親も母親もなしに実験室で「孵化」し、男女の性的境界を無化するジェンダー・ハイブリッドであるリプリーについてシガニー・ウィーヴァーはこう語っている。</p>
  1150.  
  1151. <p> 「今回のリプリーはもっとサバイバル向きの女で、前よりずっと冷血よ。人間は哺乳類で、哺乳類の脳の奥には冷血動物の脳がひそんでいて、冷血動物の脳が貪欲な食欲を持っている。リプリーはその貪欲な脳に支配されて、貪欲な動物になってしまった。生に執着して、サバイバルのために冷血に行動するのよ。彼女の中にあるものが彼女を冷血な行動に駆りたてる。彼女がどんな存在であれ、人間としての彼女はすでに死んでいて、彼女はエイリアンとして生き延びていく。ここが重要なのよ。」(13)</p>
  1152.  
  1153. <p> 『エイリアン4』のリプリーは単に「女性性を欠く」というような生やさしい存在ではない。リプリーはすべての「男性的攻撃」をやすやすとはねかえす。科学者の首を締め上げ、海賊船の巨漢たちをバスケットボール一個でぶちのめし、鉄の扉を素手でこじあけ、エイリアンを撃ち殺す。<br />
  1154.  『エイリアン』では自立指向がリプリーを駆動していた。『エイリアン2』では御しがたい母性愛がリプリーをとらえていた。『エイリアン3』では「女性的であってはならない」という否定命令が課されていた。しかし『エイリアン4』のリプリーには、男性的エートスも、女性性も、母性のしがらみも、「女性性」の否認義務も、およそ「性」にかかわる当為は何ひとつ存在しない。「敵を殺して、生き残る」ことだけが彼女の唯一の行動規範である。その意味では彼女はこの映画ではじめてジェンダー・フリー、モラル・フリーな存在として描かれたことになる。<br />
  1155.  性的幻想のみならず、血縁幻想からもリプリーは完全に自由である。<br />
  1156.  船内を暴れ回るエイリアンたちは外宇宙から飛来した異星人ではなく、発生的にはリプリーの「胎内」から取り出された女王エイリアンの子供たちである。だから(映画の中では「あんたの兄弟姉妹」というふうに呼ばれているが)ただしくはリプリーの「孫たち」に相当する。つまりリプリーのエイリアン退治は親族名称を使って言えば「祖母による孫殺し」なのである。<br />
  1157.  『エイリアン2』で「家庭回帰する母性」の記号として存分に悪役ぶりを発揮した女王エイリアンも今回は影が薄い。リプリーから得た遺伝情報のおかげで、胎生動物に「進化」し、「エイリアンと人間の雑種生命体」ニューボーンを産み落とした彼女は、せっかく腹を痛めて産んだばかりの子供にいきなり頭を叩き潰されて絶命する。<br />
  1158.  そのニューボーンはなぜかリプリーを慕ってすり寄ってゆく。(どうしてエイリアンの「母」を殺して、人間的な「祖母」を慕うのかは説明されない。)けれども、この「祖母」は逡巡なく「孫」を細切れにして宇宙空間に放り出す。<br />
  1159.  「子による母殺し」と「祖母による孫殺し」によって親子関係のラインがきれいに精算されたあと、すべての性的、種族的なしがらみから解放された二体のハイブリッド生命体、リプリーとコールが窓の外に見える青い地球をみつめている場面で映画は終わる。<br />
  1160.  私たちはさきに、この映画の基本的な主題が、ジェンダー構造が解体し、デジタル・セックスが無効になるとき、私たちの眼前に展開するはずの「人類がこれまでに見たこともないアモルファスでカオティックな連続体としてのセックス」であると書いた。このプランは「雑種交配」による既存のあらゆるジェンダー構造、親族的エートスの消滅として、たしかに映像化されたと言ってよいだろう。ここにはもう男も女も親も子もいない。<br />
  1161.  映画は最後で、リプリーとコールの間に成立した連帯とそれがもたらすはずの来るべき共同体を暗示している。リプリーはエイリアンと人間のハイブリッドであり、コールは人間と機械のハイブリッドであるから、彼女たちがかたちづくる共同体は、エイリアン/人間/機械の三つの領域の癒合体ということになるだろう。そもそもH・R・ギーガーによるエイリアンの最初のデザイン・コンセプトが「マン/マシーン共生ユニット」(バイオメカノイド)であったことを思い出すと、この三領域はきれいなループを構成したことになる。つまりエイリアンと人間と機械は、『ちびくろサンボ』の虎たちのように、お互いのデジタルな尻尾を追っているうちにいつのまにかアナログな「バター」になってしまったのである。<br />
  1162.  ジェンダー解体を求める唯物論的フェミニズムの要請に対して、ジャン=ピエール・ジュネは、男も女も母も子もみんなまとめて「バター」にしてみせた。これはある意味では唯物論的フェミニズムの「検閲」に対する「模範回答」である。しかし、エイリアン・サーガの先行作品と同じく、ジュネもまた濃厚な悪意の映像を仕掛けることを忘れなかった。</p>
  1163.  
  1164. <p>7</p>
  1165.  
  1166. <p> リプリーの腕には「8」という入れ墨が入っている。その意味はやがて明らかにされる。リプリーは船内探索の途中、ある実験室の中に「リプリー一号」から「リプリー七号」までの「標本」(七号はまだ生きているが、あとはホルマリン漬け)が陳列してあるのを発見する。クローンの「失敗作」であるこの七体はリプリーとエイリアンの「雑種」の考え得る限りもっともおぞましい姿のカタログである。リプリー八号は「殺して」と訴えるリプリー七号の求めに応えて、すべての「姉妹たち」を涙ながらに火炎放射器で焼き殺す。<br />
  1167.  リプリー8号は造形的には人間であり、能力と感性に「エイリアンが入っている」という設定であるので、ヴィジュアルな水準では(やたらに力が強いのと、血が強酸性であることを除くと)前景化しない。しかし「ニューボーン」と七人の姉妹たちは、造型的にも異種混合である。ハイブリッドの本質はこのとき映像のレヴェルできわめて効果的に語られる。<br />
  1168.  もしシガニー・ウィーヴァーが言うように、半ば人間であり、半ばエイリアンであるような存在となったリプリーが主人公を演じるべきなら、リプリー七号(女性とエイリアンがぐちゃぐちゃまじっている)にもこの映画の主人公になる権利はあったはずである。しかし、七号にはそのチャンスが与えられなかった。なぜか。理由は簡単である。<br />
  1169.  気持ちが悪いからだ。七号は「エイリアンそのもの」よりも遙かに醜悪であり奇怪な「怪物」である。少なくとも観客にはそう感じられる。<br />
  1170.  「怪物」とは、「怪物」という独立したカテゴリーに帰属するものを指すのではない。複数の種族の属性を同時に備えているようなものを私たちは「怪物」と呼ぶのである。<br />
  1171.  キマイラ、スフィンクス、グリフォン、「ぬえ」といった伝説的な怪物は、さまざまな動物のパーツからなる一種のコラージュである。フランケンシュタインの怪物は人間と非人間の境界におり、狼男は自然と文明の境界におり、屍鬼や吸血鬼や死霊たちは「幽明の境」に蟠踞する。見世物小屋をにぎわすフリークスたち(蛇女、たこ娘、半魚人、髭娘)はそれぞれ二つの種の混淆体である。人間の想像力が生み出した怪物たちはすべて「カテゴリーの境界線を守らぬものたち」である。<br />
  1172.  なぜ境界線を行き来するものは私たちを恐怖させるのか?<br />
  1173.  その理由をレヴィ=ストロースは簡潔にこう述べている。「いかなるものであれ分類はカオスにまさる。」(14)<br />
  1174.  古来、人間は二項対立によるデジタルな二分法を無数に積み重ねることによって、アナログでアモルファスな世界を分節し、記号化し、カタログ化し、理解し、所有し、支配してきた。それは「野生の思考」からコンピュータにおける「ビット」の概念まで変わらない。「アナログな連続体をデジタルな二項に切りさばく」のが人間の思考のパターンである。それが「知」であり、それによって構築されたものを私たちは「文明」と呼んでいる。これまで人間はそのようにして生きてきたし、たぶんこれからもそのようにして生きてゆくだろう。<br />
  1175.  そうである以上、デジタルな対立を無効化してアナログな連続性を回復しようとするハイブリッドに嫌悪と恐怖を覚えるのは、「人間として」当然の反応なのである。<br />
  1176.  私たちはハイブリッドを「怪物」として恐れ、嫌い、排除する。それは人間の社会がカオスに線を引くことによってはじめて成立するからである。「Aであり同時にBであるもの」を人間の文明は許容しない。<br />
  1177.  「そのような分節は人間が勝手に作り出した擬制にすぎない」という異議は正しい。しかし、「人間が勝手に作り出さなかったら誰が文明を作るのだ」という反論も同じように正しいと私たちは思う。「文明」とは要するに境界線なるものを仮構して、連続性を二項対立に読み替える詐術に他ならないのである。<br />
  1178.  リプリー七号までの姉妹たちは「文明化」に失敗し、八号がはじめてそれに成功した。彼女は精神的内面においてエイリアンであり、肉体的外面において人間である。境界線は「エイリアン的内面」と「人間的外面」の間に仮構されている。二つの血統を「内面」と「外面」に詐術的に分離することによって、リプリー八号は文明化をなしとげた。それゆえ私たちは彼女を「怪物」ではなく「人間」として認知するのである。<br />
  1179.  物語の水準では、リプリーとコールは、エイリアンと人間と機械の境界線を無化したはずでだった。しかし、リプリーはエイリアン要素を、コールは機械要素を「内面」に閉じ込めている。異族との境界線は「内面」と「外面」という垂直的な境界線に置き換えられることで延命を果たしたのである。<br />
  1180.  エイリアン/人間/機械の種族境界線は「バター」になって消滅したはずであった。たしかにプロットのレヴェルでは、デジタル・ボーダーは完膚無きまでに破壊された。しかし、映像の表層では、カオスを防ぎ止める境界線はあらわに前景化している。破壊されたはずのボーダーは、美術スタッフの力作である「ニューボーン」と「姉妹たち」の造形的な醜さと、シガニー・ウィーヴァーとウィノナ・ライダーの造形的な美しさがもたらす視覚効果として強固に再構築されたのである。<br />
  1181.  アモルファスな世界にデジタルな境界線を引くものだけが生き残る。<br />
  1182.  このメッセージは、ここでもまた「怪物」を気持ち悪いと感じ、二人の女優の「美貌」にみとれる「ぼんやりした」観客たちだけに伝達されたのである。</p>
  1183.  
  1184. <p>8</p>
  1185.  
  1186. <p> 高橋源一郎は政治と文学の関係について次のように書いている。<br />
  1187. 「『政治』は『文学』と対峙する時、必ず敗れる。なぜなら、『文学』は『政治』より『深く』『広い』からだ。(…)『政治』の本質が『わたしは正しい、やつは間違っている』なら、『わたしは正しい』と訴える『文学』はすでに『政治』に冒されているのである。そして『わたしは正しい』と主張する『文学』は『政治』であるが故に、ついにこの世界の基底とは成り得ないのだ。<br />
  1188.  では、世界の基底に成り得る、世界を成り立たせることのできる『文学』とは何なのか。」(15)<br />
  1189.  高橋はこの「最後の問い」を書きとめたところで筆を擱いている。私たちはこの文章の中の「文学」を「映画」に置き換えて読んでみた。そして高橋と同じ「最後の問い」の前にたたずんでいる。<br />
  1190.  「コレクトネス」を求める人々が映画をいくら統御しようと試みても、その勝負は必ず映画の勝利に終わるだろう。映画が二〇世紀の生み出したあらゆる物語装置の中でもっとも成功したことの秘密はたぶんそこにある。映画はつねに時代の権威に屈服し、支配的なイデオロギーに迎合し、なりふりかまわず流行を追ってきた。その職業的な変節ぶりは、現政権と反政府ゲリラ組織に同時に献金して「保険」をかけている資本家によく似ている。まさしく「面従腹背」こそは映画の本性である。映画はひとつのメッセージを言語的に語りながら、それと矛盾するメッセージを非言語的に発信することのできる理想的な詐術の装置である。このような映画のあり方はたしかに「正しく」はない。私たちはそれに同意する。けれども映画は「正しい」思想よりもしばしば「広く」「深い」。私たちはこの「映画の狡知」を愛する。おそらく、そこに「世界の基底」に通じる隘路を見出すからである。</p>]]>
  1191.      
  1192.   </content>
  1193. </entry>
  1194. <entry>
  1195.   <title>ガーディアンの記事から「東京五輪買収疑惑に新たな局面」</title>
  1196.   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2017/09/15_1100.php" />
  1197.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1827</id>
  1198.  
  1199.   <published>2017-09-15T02:00:12Z</published>
  1200.   <updated>2017-09-15T02:19:59Z</updated>
  1201.  
  1202.   <summary>9月13日付のイギリスの「ザ・ガーディアン」がリオと東京の五輪招致にIOCの票の...</summary>
  1203.   <author>
  1204.      <name></name>
  1205.      
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  1207.  
  1208.  
  1209.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  1210.      <![CDATA[<p>9月13日付のイギリスの「ザ・ガーディアン」がリオと東京の五輪招致にIOCの票の買収があった容疑について新展開があったことを報じた。以下が記事。</p>
  1211.  
  1212. <p>リマでの総会で2024年パリ、28年ロサンゼルスでの五輪開催を決定したニュースに世界の耳目が集まることを期待していたその日に、2016年リオ、2020年東京五輪の招致チームによる買収容疑についての新たな疑惑をIOCは突き付けられた。<br />
  1213. 二つの開催地が決定した直後に汚職スキャンダルの渦中の人物が高額の時計や宝石を購入していたという調査結果が出て、この二都市の決定についてさらなる調査が開始されることになった。この事実がIOC総会での2024年、2028年の開催地決定セレモニーに暗い影を落としている。<br />
  1214. 『ガーディアン』紙は資料を精査して、信用を失墜した前IOC委員ラミーヌ・ディアクの息子パパ・マッサタ・ディアクがリオと東京の招致キャンペーンの前後にフランスの宝石店で高額の買い物をしていた証拠を得た。<br />
  1215. ブラジル連邦検察局はフランス検察局の調査結果を踏まえて、支払いが「IOC内部に強い影響力を持つラミーヌ・ディアクの支援と票の買収の意図をもって」2016年リオ、2020年東京の招致成功のためになされたという結論を出した。<br />
  1216. 昨年、『ガーディアン』紙は、2020年の五輪開催都市レースのさなかに、東京五輪招致チームからマッサタ・ディアクと繋がりのあるブラック・タイディングスと称する口座へ七桁の送金があったことを暴露した。これらの支払は二回に分けて行われた。取引額は約170万ユーロで、2013年の9月7日、ブエノス・アイレスで開かれたIOCによる開催都市選定の前と後になされていた。<br />
  1217. フランス当局の捜査にもとづいて、検察局は2013年9月8日に、ブラック・タイディングスはシンガポールのスタンダード・チャータード銀行の口座から8万5000ユーロをパリのある会社宛てに送金し、それがマッサタ・ディアクが宝石店で購入した高額商品の支払いに充てられたことを明らかにした。<br />
  1218. ブラジル検察局によると、2009年から10年にかけてマッサタ・ディアクは一回6万5000ユーロから30万ユーロの支払いを、彼がコントロールしていると見られる七つの口座から、フランスとカタールの店舗およびモナコとニューヨークのオフショア・カンパニーに対して行っている。<br />
  1219. 2009年10月2日、コペンハーゲンでのIOC委員会で五輪開催がリオに決定したその日には、ディアク家と繋がりのあるパモジ・コンサルタンシイ社から7万8000ドルの支払いがパリの宝石店に対して行われている。<br />
  1220. ブラック・タイディングスについての調査は日本の国会の審問に付託されたが、同国の総理大臣は招致のための票買収について調査を進めているフランスの検察当局と協力することを約束した。しかし、ブラジルからの今回の暴露によって、次回の五輪開催国に対する調査が再開され、どのようにして東京が五輪開催権を獲得したのかそのプロセスが解明されることになるだろう。<br />
  1221. ディアクはこの疑惑に対しては回答していない。これまでのところすべての悪事を否定しており、彼に対する今回の主張は「世界スポーツ史上最大の嘘だ」と語っている。</p>
  1222.  
  1223. <p>記事はここまで。<br />
  1224. 東京の五輪招致については、シンガポールのブラック・タイディングスという怪しげなペーパーカンパニー(テレビが取材に行ったが、ボロい団地の一室であり、看板もなく、無人だった)にコンサルタント料が振り込まれたことが国会で問題になった。<br />
  1225. この送金の事実を明らかにしたのは、国際陸連の汚職と資金洗浄を調査していたフランスの検察局である。<br />
  1226. 国会でも問題にされたが、当時の馳浩文部科学相は「招致委員会は電通からブラック・タイディングス社が実績があるからと勧められ、招致員会が契約することを決定した」と語っている。<br />
  1227. ブラックタイディングス社の「実績」というのはペーパーカンパニーを経由しての資金洗浄と買収のことである。<br />
  1228. 支払いは2013年7月と10月の二度にわたって行われたが、これは開催地決定の前後に当たる。誰が見ても「手付金」と「成功報酬」としてしか解釈できない。<br />
  1229. 国会での答弁では、二度にわけた理由を問われて「金がなくて一度に全額払うことができなかった」とされているが、実際には招致委員会は資金潤沢であり、この説明にはまったく説得力がなかったが、日本のメディアは深追いせず、これを放置した。<br />
  1230. 文科省、招致委員会、電通・・・五輪招致をめぐって、これから忌まわしい事実が次々と暴露されるだろうけれど、それらを解明するのが「海外の司法機関」であり、それを伝えるのが「海外のメディア」であるということに私は日本の社会制度がほんとうに土台から腐ってきていることを実感するのである。</p>]]>
  1231.      
  1232.   </content>
  1233. </entry>
  1234. <entry>
  1235.   <title>若者の政治参加についてのアンケートにお答えした</title>
  1236.   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2017/09/13_0914.php" />
  1237.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1825</id>
  1238.  
  1239.   <published>2017-09-13T00:14:30Z</published>
  1240.   <updated>2017-09-13T00:16:24Z</updated>
  1241.  
  1242.   <summary>高校生からこんなメールが届いた。 「突然ですが、メールにて失礼致します。 現在、...</summary>
  1243.   <author>
  1244.      <name></name>
  1245.      
  1246.   </author>
  1247.  
  1248.  
  1249.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  1250.      <![CDATA[<p>高校生からこんなメールが届いた。</p>
  1251.  
  1252. <p>「突然ですが、メールにて失礼致します。<br />
  1253. 現在、私の学校では『答えが無い問題の解決策を探求する』というテーマのもとで、各グループに分かれて、経済や医療等の様々なジャンルから、テーマ設定をし、課題研究活動を行っています。<br />
  1254. 私のグループでは、『学生運動とこれからの政治参加』という主題で、60年代安保闘争から、SEALDsの活動まで、国内外の政治運動の比較を通じ、今後の政治参加には何が必要かという事を研究しています。<br />
  1255. その活動を進める中で、いくつか浮かんできた疑問について意見を聞かせて頂きたく、メールを送らせて頂きました。<br />
  1256. 以下、質問事項になります。<br />
  1257. 〈質問1〉<br />
  1258. 民主党は野党として機能していると思いますか。<br />
  1259. 又、野党のあるべき姿とは、どのようなものだと考えますか。<br />
  1260. 〈質問2〉<br />
  1261. 現代の、10代~20代の若者は政治への関心が高いと思いますか。<br />
  1262. 可能であれば、理由も教えて頂けると有難いです。<br />
  1263. 〈質問3〉<br />
  1264. 国民の政治参加の方法は、投票やデモ以外では、どのような方法があると思いますか。<br />
  1265. 〈質問4〉<br />
  1266. SNSは活発な政治討論の場になりうると思いますか。<br />
  1267. お忙しい中かと思いますが、お返事を頂けましたら、幸いです。」</p>
  1268.  
  1269. <p>なかなか興味深い質問だったし、文章がきちんとしているのが気に入って、すぐに返事を書いた。以下が返信。</p>
  1270.  
  1271. <p>「こんにちは。内田樹です。<br />
  1272. メール拝受致しました。<br />
  1273. なかなかよい課題ですね。ご質問について、僕も「正解」を知っているわけではないのですが、個人的な意見を述べたいと思います。<br />
  1274. 〈質問1〉<br />
  1275. 民主党は野党として機能していると思いますか。<br />
  1276. 又、野党のあるべき姿とは、どのようなものだと考えますか。<br />
  1277. <br />
  1278. 民進党のことを質問されているのだと思いますが、民進党は野党としてはかろうじて機能しているとは思います。<br />
  1279. ただ結党以来綱領的な整合性・一貫性がない政党で、選挙のたびに「風」頼みで公約がふらつくのがなかなか信頼されない理由だと思います。<br />
  1280. 「民意におもねる」というのは民主制下の政党としてある意味では当然のことなのですが、それにしてもあまりにも「腰が据わっていない」と民意の側でも不安になります。<br />
  1281. それでも、今の日本では民進党のような政党(民意をつかみ損ねてふらふらしている政党)はここ一つしかないので、政党政治の多様性という観点からすれば、「ないよりはあった方がいい」と私は思っています。<br />
  1282. 「野党のあるべき姿」というものがもしあるとすれば、それは「有権者にとって政策的選択肢の多様性を保証する」ことに尽くされると思います。<br />
  1283. ですから、共産党のような綱領的に整備された上意下達の一枚岩政党や、公明党のようなこれも一枚岩の宗教政党や、民進党のような党内ばらばらで「なんだかよくわからない政党」のように、それぞれ綱領も組織原理も異なる政党が併存している日本の政党政治の状態は決して悪いものではないと思います。まあ、そういうのも「あり」という程度ですけれど。</p>
  1284.  
  1285. <p>〈質問2〉<br />
  1286. 現代の、10代~20代の若者は政治への関心が高いと思いますか。<br />
  1287. 可能であれば、理由も教えて頂けると有難いです。<br />
  1288. <br />
  1289. 政治への関心というのは(とくに若者たちの政治への関心は)よくわからない理由で突発的に高まったり冷めたりするものです。それはいつの時代でも変わりません(60年代終わりから70年にかけての僕が若者だった時代も、その前の60年安保の頃もそうでした)。<br />
  1290. 自分たちの個人的な意見が政策決定に反映されないと虚無的になり、政治に対して無関心になりますが、個人的な思いと現実政治があまりに乖離すると、それまで虚無的な気分がいきなり怒りに変わるというようなことがあります。<br />
  1291. 政治的無関心というのは「政策決定に自分たちの思いがほとんど反映されていないけれど、怒っても始まらない」というなげやりな気分のことです。それが前段は同じでも「ここまでひどいとさすがに一言言わざるを得ない」という怒りに変わると「政治的関心」と呼ばれる。<br />
  1292. 政治的な関心・無関心は世代の属性ではなくて、歴史的条件の関数です。そして、無関心が関心に変わり、関心が無関心に変わるその化学変化のプロセスはあまりにデリケートなので、なかなか予測できません。 </p>
  1293.  
  1294. <p>〈質問3〉<br />
  1295. 国民の政治参加の方法は、投票やデモ以外では、どのような方法があると思いますか。<br />
  1296. <br />
  1297. 一番大切なのは政治について考え、個人的な意見を練り上げ、機会をとらえてそれを公表することだと僕は思います。<br />
  1298. 政治についての個人の思いなんかに現実変成力はないと思っている人が多いと思いますけれど、それは違います。政治過程についての本質的な洞察は、たとえ個人の見解であっても、つよい浸透力があり、政治についてのものの見方を集団的に変えてしまうことがあります。</p>
  1299.  
  1300. <p>〈質問4〉<br />
  1301. SNSは活発な政治討論の場になりうると思いますか。</p>
  1302.  
  1303. <p>どうでしょう。顔が見えない場所での議論はどういうことが主題でも、極端になりがちです(どんなことを言っても胸倉をつかまれて・・・というリスクがありませんからね)。<br />
  1304. SNSは政治的意見を二極化する(それはそれで話がわかりやすくはなるのですが)上では有用ですが、集団的な合意形成の場としてはあまり(ほとんど)役に立たないと思います。<br />
  1305. 合意形成の訓練をするためには、どうしても顔と顔を向き合わせて対話する場が必要だろうと思います。</p>
  1306.  
  1307. <p>以上です。お役に立てたらいいんですけど。」</p>
  1308.  
  1309. <p>答えのない問題の解決策を探求するという課題の設定はとてもよいと思う。<br />
  1310. ちゃんとした先生はどこの学校にもいるし、ちゃんとした先生がいればちゃんとした生徒がいる。<br />
  1311. 当たり前のことだけれど。<br />
  1312. </p>]]>
  1313.      
  1314.   </content>
  1315. </entry>
  1316. <entry>
  1317.   <title>米朝戦争のあと</title>
  1318.   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2017/09/04_1733.php" />
  1319.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1824</id>
  1320.  
  1321.   <published>2017-09-04T08:33:52Z</published>
  1322.   <updated>2017-09-04T08:54:53Z</updated>
  1323.  
  1324.   <summary>7月に、ある雑誌のインタビューで、米空母の半島接近で、北朝鮮とアメリカの間で戦端...</summary>
  1325.   <author>
  1326.      <name></name>
  1327.      
  1328.   </author>
  1329.  
  1330.  
  1331.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  1332.      <![CDATA[<p>7月に、ある雑誌のインタビューで、米空母の半島接近で、北朝鮮とアメリカの間で戦端が開かれる可能性はあるでしょうか?という質問が出ました。<br />
  1333. 戦争が始まる可能性はあるのか。あるとしたら、どういうかたちになるのか。その後何が起こるのかについて、そのときこんなことを申し上げました。</p>
  1334.  
  1335. <p>米朝戦争ということになれば、アメリカはすぐにICBMを打ち込んで、北朝鮮は消滅することになると思います。<br />
  1336. でも、北朝鮮が消滅する規模の核攻撃をしたら、韓国や中国やロシアにまで放射性物質が拡散する(日本にも、もちろん)。朝鮮半島や沿海州、中国東北部の一部が居住不能になるような場合、アメリカはその責任をとれるでしょうか。<br />
  1337. 空母にミサイルが当たったので、その報復に国を一つ消滅させましたというのは、いくらなんでも収支勘定が合いません。人口2400万人の国一つを消滅させたというようなことは、さすがに秦の始皇帝もナポレオンもやっていない。それほどの歴史的蛮行は世界が許さないでしょうし、アメリカ国内からもはげしい反発が出る。<br />
  1338. 北朝鮮の空母がハドソン川を遡航してきてマンハッタンにミサイルを撃ち込んだというならともかく、アメリカの空母が朝鮮半島沖で攻撃されたというのでは開戦の条件としてはあまりにも分が悪い。<br />
  1339. そうなると、あとは戦争をすると言っても、ピンポイントで核施設だけ空爆で破壊し、国民生活には被害が出ないようにするという手立てしかない。でも、仮にそれがうまく行って、ライフラインや行政機構や病院・学校などが無傷で残ったとしても、その国をアメリカがどうやって統治するつもりなのか。<br />
  1340. アフガニスタンでもリビアでもイラクでも、アメリカは独裁政権を倒して民主的な政権をつくるというプランを戦後は一度も成功させたことがありません。成功したのは72年前の日本だけです。でも、それが可能だったのはルース・ベネディクトの『菊と刀』に代表されるような精密な日本文化・日本人の心性研究の蓄積が占領に先立って存在していたからです。同じように、もし北朝鮮の「金王朝」を倒して、民主的な政権を立てようと思うなら、それを支えるだけの「北朝鮮研究」の蓄積が必要です。でも、アメリカもどこの国もそんなものは持っていない。戦争であれクーデタであれ住民暴動であれ、北朝鮮政権が統制力を失った後の混乱をどうやって収めるかについてのプランなんて、中国もロシアもアメリカも韓国も誰も持っていない。<br />
  1341. それについて一番真剣に考えているのは韓国だと思います。でも、その韓国にしても「北伐」というようなハードなプランは考えていないはずです。とりあえずは脱北者を受け入れ続け、その数を年間数万、数十万という規模にまで増やす。そして、もし何らかの理由で北朝鮮のハードパワーが劣化したら、韓国内で民主制国家経営のノウハウを学んだ脱北者たちを北朝鮮に戻して、彼らに新しい政体を立ち上げさせる。韓国政府が北朝鮮に直接とって代わることはできない。混乱を収めようと思ったら、「北朝鮮人による北朝鮮支配」というかたちをとる他ない。そのことは、韓国政府にはわかっているはずです。<br />
  1342. もっとソフトな解決法があります。一国二制度による南北統一です。<br />
  1343. これは1980年に、当時の北朝鮮の金日成主席が韓国の全斗煥大統領に向けて提案したものです。統一国家の国名は「高麗民主連邦共和国」。南北政府が二制度のまま連邦を形成するという案です。「在韓米軍の撤収」という韓国政府にとって簡単には呑めない条件がついていたせいで実現しませんでしたが、懲りずに北朝鮮は2000年にも金正日が南北首脳会談の席で、金大中大統領に対して、再び連邦制の検討を提案しています。<br />
  1344. 南北統一については、北の方からまず「ボールを投げている」という歴史的事実は見落としてはいけないと思います。条件次第では、南北統一、一国二制度の方が「自分たちにとって安定的な利益がもたらされる」という算盤勘定ができないと、こんな提案は出て来ません。<br />
  1345. 今の金正恩にとっては、「王朝」の安泰が約束され、「王国」の中で自分たち一族が末永く愉快に暮らせる保証があるなら、一国二制度は悪い話じゃありません。連邦制になれば、核ミサイルをカードに使った瀬戸際外交を永遠に続けるストレスからは解放されるし、飢えた国民が自暴自棄になって暴動を起こしたり、政治的野心を持った側近がクーデタを起こすといったリスクも軽減される。 <br />
  1346. ですから、北朝鮮問題を考えるときに、北朝鮮と戦争をやって勝つか負けるかというようなレベルの話をしても仕方がないのです。考えなければいけないのは、三代60年にわたってファナティックな専制君主が支配してきた2400万人の「王国」をどうやって現代の国際社会にソフトランディングさせるかという統治の問題です。<br />
  1347. 一番困るのは、金王朝が瓦解した後に無秩序状態が発生することです。難民が隣国にどっと流れ込む。もちろん日本にも場合によっては数十万単位で漂着するでしょう。それについての備えが今の政府にどれだけあるのか、僕は知りません。でも、与党政治家たちの排外主義的は発言を徴する限り、難民問題について真剣に考えているようには見えません。<br />
  1348. でも、リスクは難民問題だけではありません。もっと暴力的なリスクがあります。北には大量の兵器があり、麻薬があり、偽ドル紙幣がある。国家事業として「ダーティ・ビジネス」を展開してきたんですから。これらは世界中どこでも高値で通用する商品です。中央政府がコントロールを失ったら、当然さまざまな国内勢力がこの巨大利権の奪い合いを始める。近代兵器で武装した「軍閥」が北朝鮮国内各地に割拠して、中国・ロシア・アメリカをバックにした「代理戦争」を始めるというのが、最悪のシナリオです。<br />
  1349. もう一つのリスクは、ソ連崩壊後のロシア・マフィアのように、北朝鮮の「ダーティ・ビジネス」を担当していたテクノクラートたちがそのノウハウを携えて、海外で商売を始めることです。北朝鮮の「ダーディ・ビジネス」担当者はこれまでも世界各国の諜報機関や「裏社会」とつながりを持ってきました。今までは「国営」ビジネスでしたけれど、王朝が滅びてしまうと、これが私企業になる。兵器や麻薬や偽札作りやスナイパーや拷問の専門家などが職を求めて半島を出て、世界各地で新たな「反社会勢力」を形成することになる。<br />
  1350. 北朝鮮が瓦解した場合の最初の問題は難民です。でも、難民は寝る所を提供し、飯が食えれば、とりあえずは落ち着かせることができる。怖いのは軍人です。<br />
  1351. 北朝鮮は保有する兵力は想定ですが、陸軍102万人、海軍6万人、空軍11万。他に予備役が470万人、労農赤衛隊350万人、保安部隊が19万人。2400万人の国民のうち約1000万人が兵器が使える人間、人殺しの訓練をしてきた人間です。<br />
  1352. イラクでは、サダム・フセインに忠誠を誓った共和国防衛隊の軍人たちをアメリカが排除したために、彼らはその後ISに入って、その主力を形成しました。共和国防衛隊は7万人。朝鮮人民軍は1000万、その中には数万の特殊部隊員がふくまれます。職を失った軍人たちをどう処遇するのか。彼らが絶望的になって、反社会勢力やテロリスト集団を形成しないように関係諸国はどういう「就労支援」を整備したらいいのか。それはもう日本一国でどうこうできる話ではありません。<br />
  1353. リビアやイラクがそうでしたけれど、どんなろくでもない独裁者でも、国内を統治できているだけ、無秩序よりは「まだまし」と考えるべきなのかも知れません。<br />
  1354. 今のところ国際社会はそういう考えのようです。とりあえずは南北が一国二制度へじりじりと向かってゆくプロセスをこまめに支援するというのが「北朝鮮というリスク」を軽減するとりあえずは一番現実的な解ではないかと僕も思います。</p>]]>
  1355.      
  1356.   </content>
  1357. </entry>
  1358. <entry>
  1359.   <title>シンギュラリティと羌族の覚醒</title>
  1360.   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2017/09/01_1033.php" />
  1361.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1823</id>
  1362.  
  1363.   <published>2017-09-01T01:33:38Z</published>
  1364.   <updated>2017-09-01T01:55:22Z</updated>
  1365.  
  1366.   <summary>安田登さんをお招きして、ご高著『あわいの時代の「論語」』刊行記念3時間セミナー(...</summary>
  1367.   <author>
  1368.      <name></name>
  1369.      
  1370.   </author>
  1371.  
  1372.  
  1373.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  1374.      <![CDATA[<p>安田登さんをお招きして、ご高著『あわいの時代の「論語」』刊行記念3時間セミナー(ほぼしゃべりっぱなし)というイベントを凱風館で開いた。<br />
  1375. 頭の中に手を入れて引っ掻き回されるようなわくわくする経験だった。<br />
  1376. 備忘のために、すごく興奮した話題を一つだけ書き止めておく。<br />
  1377. それはsingularityはAIが人類史上初めてではなく、3回目という話。<br />
  1378. 一度目は数万年前に頭蓋骨が巨大化したとき、二度目は文字が発明されたとき。<br />
  1379. その時、安田さんから周りの人たちと「文字が発明されたときに、文字がなかった時代と何が変わったのか?」相談してみてくださいと言われて、隣に座っていた光嶋くん、神吉君、浅野パパと3分間ほどブレーンストーミングをした。<br />
  1380. 文字の出現というのは脳内に記憶しておくべきことを外部記憶装置に転写することができるようになったわけだから、脳内の「デスクトップ」が広く使えるようになったというのがとりあえずの回答だったのだけれど、僕はその時に<strong>時間意識の大きな変容があったのではないか</strong>と思った。<br />
  1381. 文字がないとき、人々は膨大な神話や伝承を口伝で記憶し、再生していた。<br />
  1382. 『古事記』を口伝した稗田阿礼は「年は28歳。聡明な人で、目に触れたものは即座に言葉にすることができ、耳に触れたものは心に留めて忘れることはない」人だったそうである。もちろん文字は知らない。太安万侶が稗田阿礼の口述したものを筆記したものとされているが、安田さんによると太安万侶によるかなりの「改竄」がなされたそうである。<br />
  1383. ホメーロスの『イリーアス』も『オデュッセイア』も口承である。<br />
  1384. 古代ギリシャの吟遊詩人たちは多く盲目だった。「盲目であることなしに詩人となることは不可能だ」という信憑があったという説もある。現に今にその名が伝えられる多くの古代ギリシャの詩人たちは盲目であった(先天的にあるいは事故によりあるいは自ら眼を突いて)。<br />
  1385. それは「文字を読む」という行為と膨大な神話口碑を「口伝する」という行為の間に、記憶のアーカイブの仕方の違いという以上の、ある根本的な「断絶」があったからであろう。<br />
  1386. タルムードもそうだ。ユダ・ハ・ナシーが第二神殿の破壊後、散逸を恐れてミシュナーを文字化したのは紀元2世紀のことである。それまで原型的な一神教が成立してから1000年以上、律法とその解釈は口伝されていたのである。そして、安田さんによれば「論語」もそうなのである。<br />
  1387. 孔子がその教えを説いたのは紀元前500年頃。「論語」が文字化されたのは紀元前後(漢の武帝の時代)であり、その間500年は「論語」もまた暗誦され口伝されていたのである。<br />
  1388. 人類史のある時期まで、すべてのテクストは記憶され、暗誦され、口伝されていた。それは当然ある種の「歌」あるいはそれに類する独特の韻律をもつものだったはずである。そして、そうである以上、ある箇所を思い出そうとしても、そのためにはある区切りのはじめから歌い出さないと、そこには行き着けない。<br />
  1389. これを情報用語では、シーケンシャル・アクセス(sequential access)と言う。<br />
  1390. カセットテープやレコードのような記憶媒体はシーケンシャルである(前のもののあとに後のものが続くので、その時間順をたどってしか求める場所にたどりつけない)。<br />
  1391. 能舞台で絶句した能楽師は、誰も詞章をつけてくれないと、舞台で硬直したまま自分が語るべき詞章を脳内で最初から全て再生する。最初から始めないと、つっかえたところにたどりつけないのである。<br />
  1392. 文字記号と音声記号の最大の違いは、文字記号は相当量を<strong>一望俯瞰できる</strong>ということである。「飛ばし読み」「斜め読み」ができる。求めている情報にダイレクトに、ランダムにアクセスできる。<br />
  1393. <strong>文字の発明は人類の情報検索の基本モードが「シーケンシャル・アクセス」から「ランダム・アクセス」に変わったということを意味している。</strong><br />
  1394. それによって何が起きたか。<br />
  1395. 「<strong>時間の可視化</strong>」である。<br />
  1396. <strong>それまで時間は「生きられるもの」だった。文字の出現によって、時間は「目に見えるもの」になった。</strong><br />
  1397. これはまさにsingularity と呼ぶにふさわしい劇的な転換だろう。眼前のテクストは最初から読み出して、最後まで行き着くまでに人間が要する「時間そのもの」を可視化することができるのだから。<br />
  1398. 安田さんによると、文字の出現によって、人間は未来と過去という概念を獲得して、未来に対する不安と過去に対する後悔という、それまで人類が有したことのなかったものを持ってしまったそうである。それが文字による時間の可視化の効果である。<br />
  1399. 「祈り」も「呪い」も「占い」も、時間が可視化されることがなければ、存在しない、と。<br />
  1400. その通りだろう。<br />
  1401. それを聞いて、こんな話を思い出した。<br />
  1402. 「朝三暮四」という説話である。<br />
  1403. 宋の狙公は猿を何匹も飼っていたが、懐具合がさみしくなり、餌代を節約しなければならなくなった。それまでは餌の「とちの実」を朝四つ、夕方四つ与えていた。猿たちに向かって、これからは「朝に三つ、夕方に四つにしたい」と提案すると猿たちは激怒した。「じゃあ、朝に四つ、夕方に三つならどう?」と訊いたら、猿たちは大喜びした。<br />
  1404. この逸話はいったい何を意味しているのだろう。<br />
  1405. 私はこれはsingularity の話ではないかと思う。<br />
  1406. 人間と猿は時間意識が違う。それはsingularity 以前の人間と以後の人間では、時間意識が変わってしまったことを説話的に表象しているのではないか。<br />
  1407. 宋の狙公の逸話は春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)のことである。<br />
  1408. 安田さんのいう「あわいの時代」というのは、殷代に甲骨文字が発明されて(紀元前17世紀から紀元前11世紀)文字のsingularity があってから、読字という習慣が集団の相当部分に広がるまでの、<strong>時間意識を持たない人々と時間意識を持つ人々が「共存」していた時代</strong>のことである。<br />
  1409. その時代に「時間意識」をめぐる物語がいくつも書かれているのは、おそらくゆえなきことではない。<br />
  1410. たとえば『韓非子』にある「守株待兔」の話がそうだ。童謡「まちぼうけ」のオリジナル説話である。<br />
  1411. 宋代に一人の農夫がいた。彼の畑の隅の切り株に、ある日兎がぶつかって、首の骨を折って死んだ。それを持ち帰って「兎汁」にして食べた農夫は、次の日から耕作を止めて、終日兎がやってきて首の骨を折るのを待った。兎は二度と来ず、農夫は収穫物を得られず、国中の笑いものになった。<br />
  1412. これも春秋時代の話である。<br />
  1413. なぜその時代には「こんな話」が選好されたのか。<br />
  1414. <strong>それはこの「あわいの時代」にはまだsingularity 以前の「時間意識をもたない人たち」がいたからである</strong>。約束という概念も、確率という概念も、可能性という概念も持たない人々がいたので、「以後」の人々は彼らを笑いものにしたのである。<br />
  1415. 殷代に犬や羊や牛とともに、しばしば宗教儀礼において犠牲にされた「羌族(きょうぞく)」という人種集団がいる。昨日読んだ甲骨文も「三人の羌人と九匹の犬を生贄に捧げることの可否を卜占する」ものだった。<br />
  1416. 安田さんの仮説では、<strong>羌族の人々は時間意識を持っていなかったのではないかと言う</strong>。だから、狩られて、捕らえられ、幽閉され、餌を与えられ、引き出されて生贄にされるときも、我が身に何が起きるのか想像することができなかった。それゆえ、不安も恐怖もなかった。自分たちを狩る人間たちに対する怨恨も憎悪も感じなかったし、狩られたことについての後悔も反省もなかった。かつて我が身に起きたことと今我が身に起きていることの因果関係がわからないのなら、そんなもの感じようがない。<br />
  1417. その羌族がのちに周族と同盟して、殷の紂王を滅ぼし、周を立てる。<br />
  1418. このとき羌族を率いて殷と戦ったのが太公望である。<br />
  1419. ということは、<strong>ある時点で羌族は時間意識を持ったということである</strong>。<br />
  1420. そして、それまでただ狩られるだけの存在だった「羊のような」部族がいきなり「狼のような」強大な戦闘集団に化した(たぶん)。<br />
  1421. この羌族の恐るべき変貌は殷周代の人々に強烈な印象を残したはずである。<br />
  1422. でも、文字を持ち、時間意識を持つことで人間は集団的に「ヴァージョンアップする」という歴史的事実は抑圧された(おそらくは時の権力者たちが統治上の安定を保持するために)。<br />
  1423. そして、時間意識を持たぬ人たち(狙公や「守株」の農夫)の笑い話のうちに「前singularity期の人間」の相貌がかろうじて伝えられた・・・・ということではないのだろうか。<br />
  1424. 孔子が「仁」という言葉で言おうとしたのが何であるかはわからないけれど、それは「人間のヴァージョンアップにかかわる技術」のことらしいと安田さんは昨日言われた。そして、孔子はその仕事を顔回が成し遂げるだろうと期待していた、と。<br />
  1425. でも顔回は夭逝して、その「転換」は実現せず、孔子は失望のうちに死ぬ。<br />
  1426. 孔子が顔回とともに範とするのは周建国の立役者である周公である。<br />
  1427. なぜ周公なのか。<br />
  1428. この仮説の当否については今度安田さんに聞いてみたいけれど、それは<strong>太公望経由で羌族の「覚醒」をもたらしたのが周公だった</strong>からではないか。<br />
  1429. 羌族はそれによって短期間にかつて自分たちを狩っていた者たちを狩るほどの能力を身に着けた。<br />
  1430. どうでしょう、安田さん。この仮説、けっこういけませんか。<br />
  1431. というふうに妄想が次々と湧いてくるのが安田さんの話を聞いて頭が攪拌されてしまったことの効果である。<br />
  1432. ああ、安田さんともっと「ほんまでっか古代史」についてお話したい。<br />
  1433. </p>]]>
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  1438.   <title>北星学園での講演</title>
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  1442.   <published>2017-08-31T06:44:04Z</published>
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  1453.      <![CDATA[<p>7月22日に北星学園での研修会で講演した。その講演録の文字起こしが終わった。学園の内部資料として配布されるはずだけれど、教育についての持論を展開しているうちに、だんだん加熱してきて、ぷりぷり怒り出しているところが面白かったので、ここに公開することにする。</p>
  1454.  
  1455. <p>おはようございます。ご紹介いただきました内田です。<br />
  1456. ご紹介の通り、私は神戸女学院大学というミッションスクールの女子大に21年間勤務しておりました。こういう感じの研修会、前任校では「リトリート」というのが毎年ございました。久しぶりに今日、讃美歌を歌って、チャプレンのお祈りをいただいてから、こういう集まりを持つ機会を持ち、たいへんに懐かしい気持ちがいたしました。<br />
  1457.  リトリートというのは、ミッション系の学校によくありますが、文字通りリトリートです。引きこもりです。世俗の活動をいったん停止して、沈思黙考する時間を持つ。そういう意味だとチャプレンからは伺いました。研修会ということなのですけれども、やはりミッションスクール、いっとき世俗の活動を停止して沈思黙考する。もう少し広いスパンで、深くものを考える、そういう時間を作るという趣旨の集まりではないかと思っておりますので、その趣旨にふさわしい話を今日はしたいと思います。<br />
  1458. 「移行的混乱」と演題にありますけれども、「移行期的混乱」というのは、私の友人であります平川克美君が書いた本のタイトルです。非常に使い勝手が良いので、よく使わせて頂いております。今は一つの時代が終わって、ピークアウトして、これから下降局面に入って、後退していく、あるいは衰弱していく、そういうプロセスに、今入っているのではないかと僕は考えております。これから時代が全体として勢いを失っていく、活気を失っていく、衰えていく。<br />
  1459. 一番分かりやすい指標は人口減で、日本はこのあと急激な人口減局面に入っていきます。これは日本のみならず人類が一度も経験したことがないタイプの、極端な社会的変化です。<br />
  1460. 現在、日本人口は1億2,700万人ほどですが、人口はこれから急激に減って行って、今から80数年後、2100年段階での上位推計で6,500万人、中位推計で4,850万人、下位ですと4,000万人を切ります。おそらく5000万人程度になるのではないかと思います。5,000万人というと、だいたい明治40年ごろの人口です。今から80数年かけて、明治40年ぐらいの人口に縮小していく。これは、ほぼ間違いない。移民受け入れなどで多少の人口増はあるかもしれませんけれども、基本的には人口減はこのあと急坂を転げ落ちていくように進行していくわけです。大事なことは、これが誰も経験したことがない、人類史上初めての局面だということです。まず、そのことを心に止めておかなければいけない。過去の成功体験が適用できない状況に僕らは今入りつつあります。これまで有史以来日本列島人口はだいたい増え続けてきました。そういうものだとみんな思いこんでいたからです。だから、近代以降のすべての社会理論、社会モデルは人口増と経済成長を自明の前提にして作られています。資本主義という仕組みそのものが人口増と経済成長を前提にしている。資本主義を批判するマルクス主義でさえも、やはり人口増・経済成長を不可疑の前提として作られています。資本主義も、資本主義を批判する思想も、成長が止まる、人口が減っていくという局面を想定していない。だから実際に、そういう状況になったときに、どういう手立てがあり得るのかに関してはどの陣営にも理論がない。過去にそんな事態になってことがないのですから、それにどう対応すべきかという学説も、どう対処したら成功したのかという成功事例も存在しない。そういう時代に入っています。<br />
  1461. 今の日本は非常に停滞しています。何か、頭がどよんとぼやけていて、シャープなことを誰も言わなくなったという感じがありますが、それも当たり前です。前代未聞の、五里霧中の、予測ができない状態に入ったわけですから。こういう状況において明晰な言語があるとすれば、それは「先が見えない」ということなのですけれども、そう言えばいいのに、そう言わない。政治家も官僚も学者たちも、人口増と経済成長が自明である社会をモデルにしてしか考えることができないので、その前提そのものが揺らぐと何も言うことがなくなってしまう。でも、「これまで話の前提にしていた条件が変わってしまったので、この先どうなるか見当もつきません」と正直にカミングアウトすることができない。<br />
  1462. これまで経済成長モデルはもう無効になっています。でも、それが言えない。それだけは言わない約束になっているので、知っているけれど、言わない。でも、先月、『フォーリンアフェアーズ・レポート』というアメリカの外交専門誌の日本語版がありますけれど、ここに「経済成長はもうしないのだから、経済成長しないことを前提にした経済政策を採用しなければならない」ということを言うエコノミストが出て来ました。これはモルガン・スタンレーのグローバル・ストラテジストという肩書の人でした。投資銀行の戦略を考えるエコノミストが「各国の指導者はもう『経済成長という非現実的な夢』を語るのを止めた方がいい」と書いているのです。経済目標を下方修正して、現実に合った経済政策を採るべきなのだが、そのことを理解している指導者がほとんどいない、と。<br />
  1463. 生き馬の目を抜くウォール街の投資銀行のエコノミストが「もう経済成長はしない。いいかげんに現実を直視しろ」と言っているのに、相も変わらず、世界の政治家たちはその現実から目をそらしています。そういう指導者のいる国では、メディアも一緒に遅れていて、そういうところでは世界で今何が起きているとかということを正確に報道していない。報道して分析して対策を提案できるような力がメディアにない。<br />
  1464. だから、日本人は今日本がどういう状況にあるのか「よく知らない」のです。これが僕はきわめて危機的なことだと思います。病気の人間が「ああ、具合が悪いなあ。病気かな」と思えば、寝たり、薬を飲んだり、医者に行ったりするけれど、病気なのに病気であることに気がつかないで、生活を変えずにふだん通りに暮らしていれば、そのうち症状が悪化して、やがて死んでしまう。今の日本はかなり重篤な病気なのに病識がない病人に似ています。「病識」を伝えるのはメディアですが、メディアがその役割を果たしていない。<br />
  1465. 経済のことはデータをごまかしたり、解釈をねじまげたりすれば、「順調に推移している」といいくるめることは可能ですけれど、人口減は否定することができません。あと83年の間に7,000万人ほど人口が減るのです。年間90万人。鳥取県の人口が60万ですから、鳥取県1.5個分の人口が毎年減ってゆく。<br />
  1466. それが、いったいどういう社会的影響を及ぼすのかを予測し、そのネガティヴな影響をどうやって緩和できるかについて衆知を集めて議論すること、それが最優先になされるべきことです。でも、その避けがたい現実を直視し、衝撃をどう緩和するかについて現実的な提案をする人も、どこにも見当たらない。政治家にも官僚にもビジネスマンにもジャーナリストにも、当然大学人にもいない。<br />
  1467. 人口減少は当然雇用の問題にかかわってきます。人口減、超高齢化、超少子化によって、従来存在していたいくつもの産業が消滅します。例えば、全国紙。購読層が高齢者で、若い人はもうほとんど購読していない。高齢者はいずれいなくなりますから、おそらくあと10年ほどですべての全国紙はビジネスとしては「採算割れ」するようになるでしょう。まだ不動産とか持ってますから、切り売りやテナント料収入で新聞は出し続けるでしょうけれど、もうビジネスとしては先がない。<br />
  1468. それに追い打ちをかけるのがAIです。海外のメディアを読むとAIが導入されてくると、業界によっては雇用の30~40%が消失すると書かれています。数値はさまざまですけれど、雇用が減ることは間違いない。機会かで雇用が減るどころか、業界そのものが消滅するところも出てくる。そのような事態にどう対処したらよいのか。大量の失業者が短期的に出て来た場合、彼らの生活の保障をどうするのか、再就職のための就業支援体制をどうするのか、そういう話をもう始めなければいけない時期なのです。<br />
  1469. ですから、驚くべきことに、アメリカでもベーシック・インカムの導入が真剣な議論の論点になってきています。アメリカでベーシックインカムが話題になるというのはこれまでならまず考えられないことです。<br />
  1470. アメリカはリバタリアンの伝統が強いところですから「勝つも負けるも自己責任」という考え方をする人が多い。仮に競争に負けて、路頭に迷って、飢え死にしても、それは自己責任だという考え方をする人がいる。社会的競争に敗北した人間を公的資金によって支援するのは筋違いだ。そういうことを公言する人たちがいたわけです。この間、僕の知り合いでカリフォルニア大学のデービス校の医学部で医療経済学の先生をしている方からお話伺いました。「オバマ・ケアが廃止されたら何が起きるのですか」と聞いたら、「生活保護を受けている入院患者が、数十万人が路上に放り出されるかも知れない」と言っていました。<br />
  1471. 精神力の弱い人は、こういう移行期、激動期になると、危険が近づいた時に駝鳥が砂の中に頭を突っ込むように、何が起きているのか見ないようになる。「何も起きていない。私は何も見ていない」と言い張って、現実から目を逸らそうとする。生物としてはある意味で自然な反応ではあるわけですけれども、しかし、やはりそうも言ってはいられない。特に日本の場合というのは、超高齢化・超少子化、労働生産年齢人口の激減という点では世界のトップランナーなわけです。このあと、日本に続いてすぐに中国、韓国、ヨーロッパ、アメリカが少子化・人口減少期に入りますが、今のところは日本が先頭にいる。<br />
  1472. この後、予想では2050年前後に、世界のすべての地域で人口転換が起きます。人口転換というのは、合計特殊出生率が2・1を切って、人口の再生産ができなくなるプロセスに入ることです。平均寿命が延びていますから、2・1を切っても、しばらくは惰性があって、人口はすぐには減りませんが、いずれ22世紀半ばにはアフリカを含めて人類全体が人口減少局面に入ると予測されています。22世紀中ごろに地球がどうなろうが、われわれにはもう関係ないと言ったら関係ないわけですけれど、それでもタイムスパンを大きく取らないと、人類史上経験したことがないような局面に、日本がその先頭を切って入っているという事実は把握できない。でも、人口減少について、ではどうするのかについて真剣な議論は動きはどこにもありません。政府には少子化対策の特命担当大臣がいますけれど、婚活だとかいうようなぬるい話しかしていない。ビルの屋上から落ちている途中で、着地のときの衝撃をどう緩和するかという話をしているときに、屋上から落ちないように柵を作りましょうというような話をしている。</p>
  1473.  
  1474. <p>今日は大学、高校、中高の研修会ですので、学校教育の問題に焦点を合わせて移行期の危機についてお話ししようと思います。これもまたメディアがあまり報道しないし、大学人自身も直視しようとしていないトピックです。今、日本の大学教育は壊滅的な状況にあります。研究者の方は実感として日本のアカデミズムが勢いを失っていることはわかっていると思います。特に自然科学分野で、先端的な研究をしている人たちは、ほぼ口を揃えて「こんなことをこの先も続けていけば、日本の学術的発信力は先進国最低レベルまで下がるだろう」と言います。<br />
  1475. 僕の友人の阪大医学部の仲野徹教授は生命科学の研究者ですけれど、この間、海外の学会誌に日本の科学研究の現状について歯に衣着せぬ手厳しいコメントを投稿しておりました。<br />
  1476. 仲野先生によると、科学研究というのは自転車みたいなもので、走っているうちはペダルが軽く、どんどん走るのですけれども、速度が遅くなるとペダルが重くなり、1回止まったら、よほどの力でペダルをこがないともう走らせることができない。日本の大学で行われている自然科学研究は速度を失いつつあり、あと10年で止まる。1回止まった自転車を再びこぎ出す場合と同じように、一度止まった自然科学研究を再度軌道に乗せるためには、それまでの何倍もの資源投入が必要になる。だから、あと10年で速度をもう一度上げないと、日本の自然科学研究は「終わる」と言います。でも、今の教育行政を見ていると、たぶん終わりそうである、と。<br />
  1477. 合気道同門の後輩たち、東大気錬会の諸君には理系の研究者が多いのですけれど、彼らと話をすると、かなり絶望的な気分になります。先日も、物理の若手研究者と話したのですけれど、「君の分野はどう?」と訊ねたら、言下に「もうダメです」と吐き捨てるように答えました。いました。これまでは研究について訊くと、もう少し楽しそうに話してくれたのですけれど、取りつく島もない言い方でした。彼によると、今のようなシステムが継続する限り、もう日本の科学研究に未来はないということでした。任期制が基本的な雇用形態になったせいで、若手の研究者たちは、不安定な任期制ポストを渡り歩く以外に研究を続けることができないわけですけれど、来年度の雇用があるかどうかは、プロジェクトのボスにどう査定されるかにかかっている。だから、上のいうことをはいはいと聞いて、決して逆らわない「イエスマン」しか大学に残れない。独創的なアイディアを一人で追求しようとするようなタイプの研究者は煙たがられる。それではイノベーションが起きるわけがないのです。<br />
  1478. アメリカの外交専門誌Foreign Affairs Magazineは去年の10月号で日本の大学教育の失敗について長い記事を掲載しました。過去30年の日本の教育政策は「全部失敗」という衝撃的な内容でした。続いて今年の3月にはイギリスの科学誌Natureが、日本の自然科学研究の失敗についての記事を掲載しました。半年間の間、英米の世界的な影響力を持つ二つのジャーナルが「日本の大学教育の失敗・科学研究の失敗」を大きく取り上げたわけです。それくらいに日本の学術の劣化は国際的に「有名」な事例になっているのです。21世紀に入ってから学術的生産力がひたすら落ちているのは、先進国で日本だけだからです。<br />
  1479. 学術的生産力の指標をいくつか見ておきます。まず、論文の本数。これは2002年から減少が始まって、現在、OECDでは5位です。5位ときくとけっこういいポジションじゃないかと思う人もいるかも知れませんが、1997年から2002年まではアメリカに次いで世界2位だったのです。それがドイツに抜かれ、イギリスに抜かれ、中国に抜かれて5位にまで落ちた。他が論文数を増やしている中で、日本だけが停滞ないし減少している。それから、よく言及される高等教育に対する公的支出のパーセンテージ、これは過去5年連続OECD最下位でした。去年はハンガリー日本より下だったので、下から2番目になりました。<br />
  1480. 学術的生産力の指標として一番分かりやすいのは「人口あたり論文数」です。論文数だけ見ても日本はすでに日本より人口の少ないドイツ、イギリスに抜かれたわけですから、人口当たり論文数は悲惨なことになります。2013年が35位、2015年がさらに下がって37位。アジアでも、中国、シンガポールはもとより、台湾、韓国の後塵を拝しています。<br />
  1481. 海外の学術誌が、世界的に見て例外的な失敗事例として日本を研究対象にするのも理解できます。でも、このことを日本のメディアはほとんど報道していません。それを重大な問題として受け止めている気配もありません。でも、Foreign Affairs Magazineの論調は実に手厳しいものでした。<br />
  1482. 日本の文科省が行ってきた過去20年間の研究拠点校作りがいろいろありました。COE、RU11、グローバル30などなど。これについて「孤立した、単発の、アイランド・プロジェクトであり、それゆえ全て失敗だった(It was therefore a total failure)」という総括でした。実感としては、僕もそうじゃないかなという感じがしてはいたのですけれど、まさかここまではっきり海外のジャーナルから指摘されるとは思っていませんでした。<br />
  1483. Foreign Affairs Magazine が日本の大学教育の特徴として挙げていたのは、「前期産業社会に最適化した、時代錯誤的な教育制度」であることと「批評的思考(critical thinking)、イノベーション、そしてグローバル志向(global mindedness)」が欠落していることでした。「グローバル化に最適化した教育」とか言ってきた割には、日本の教育には「グローバル志向」が欠如していると指摘されてしまった。「グローバル志向」の定義は「探求心、学ぶことへの謙虚さ、世界各地の人々と共同作業することへの意欲」だそうです。それがない、と。<br />
  1484. こうも書かれていました。「日本の教育制度は社会秩序の保持と、献身的な労働者の育成と、政治的安定のために設計されている」と。それが「前期産業社会に最適化した、時代錯誤的な教育制度」ということです。ポスト資本主義の時代に入ろうという移行期に「前期産業社会に最適化した教育制度」で対応しようとしているわけですから、学術的なアウトカムが期待できるはずがない。<br />
  1485. さすがにここまで言われたのですから、文科省としてはきっちり反論すべきだったと思います。自分たちがやってきたことをほとんど全否定されたわけですから。もし、自分たちの教育行政がそれなりの成果を上げていると信じているなら、論拠を挙げて反論すればよい。バカなことを言うな、自分たちの教育政策はこんなに研究成果を上げているぞ、と。ちゃんと数値的な根拠を示せばいい。でも、文科省はノーコメントでした。まったく反論しなかった。逆に、指摘が当たっていると思ったら、率直に失敗を認めて、これを契機に、何がいけなかったのか、原因を究明すればいい。でも、文科省はそれもしなかった。反論しなかったのは反論する根拠がなかったからでしょう。失敗を認めなかったのは、失敗を認める責任を取らされるからでしょう。だから、失敗しているにもかかわらず、その事実を認めず、それゆえなぜ失敗したのかを吟味することもしなかった。ということは、文科省はこれからも教育行政で失敗し続けるということです。これまでの失敗を認めないということは、失敗事例から学習することを拒否したということです。だったら、同じ失敗をこれからも続ける他ない。有害無益なことだとわかっていても、止められない。止めたら「こんなこと誰が始めたのだ」という責任問題が発生するからです。だから、無駄とわかっていても、止められない。でも、何かしないといけないから、これまでの仕事に追加して、新しい仕事をどんどん課してゆく。でも、教育の現場にいるのは生身の人間ですから、使える時間も体力も限界がある。どこかでバーンアウトする。現に、バーンアウトが始まっている。その結果が、この悲惨な学術的生産力の低下として現象しているわけです。<br />
  1486. 僕は82年に大学の教員に採用されました。それからですから30年以上、大学の教育現場を見てきています。記憶する限り、最初の大きな変化があったのは1991年でした。大学設置基準の大綱化という政策転換がありました。大綱化というのは、平たく言えば、大学に教育内容についてフリーハンドを与えるということです。それまでの文科省の教育行政はいわゆる「護送船団方式」でした。カリキュラムから、校地面積から、図書の冊数から、事細かに定めてあった。「箸の上げ下ろし」まで小うるさく注文をつけてきたのですが、その代わりいったん大学として認可したら、絶対に脱落させない。一定の質の教育機関として機能するようにうるさく世話をした。<br />
  1487. それが91年に方向転換しました。護送船団方式を止めて、大学の生き残りを市場に託したのです。これからは各大学が自分たちのカリキュラム編成を自由にやってよろしい、と。創意工夫をしたいところはしてよろしい、と。好きなことをやらせる代わりに、国はもう大学の世話をしない。大学が生き残るか、脱落するかは、自己努力にかかっている。それぞれの大学が大学としてふさわしいものであるかどうかは、文科省ではなく、これからはマーケットが判断する。<br />
  1488. 僕はこの時点では、大綱化を歓迎する立場でした。文科省、いいこと言うじゃないかと思っていました。それぞれの大学が好きにやって良い代わりに、その大学が滅びようと繁栄しようと自己責任であるというのは、いっそ潔いではないかと思いました。各大学がカリキュラム改革や大がかりな学部改組に取り組み出したのはそれからです。<br />
  1489. でも、よくよく考えてみると、別にそれは文科省が大学を信頼して、大学に教育についての権限を委譲したという話ではなかったのです。それはこの時点ですでに18歳人口の減少が始まっており、遠からず大学が過剰になるということがわかっていたからです。いずれ大学は淘汰されることになる。でも、文科省にはどの大学が淘汰され、どの大学が生き残るべきかを決定するロジックがなかった。当たり前ですよね、明治の近代学制の開始以来、日本の教育行政がしてきたことは一言にして尽くせば「いかにして国民の就学機会を増やすか」ということだったからです。どうやって教育機関を増やしていくのか。教育内容を多様化・高度化するか。それが仕事だった。じゃんじゃん学校を作るのが本務だった。でも、90年代に入った頃に、「大学が多すぎる」ということに気がついた。大学進学率ももう頭打ちになって、18歳人口が減り出すと、定員を維持できない大学が出てくる。それがはっきり公言されたのは民主党政権のときです。国家戦略会議というところで「大学が多すぎるから減らさなきゃいけない」という、まともな議論が出てきた。そのあと、田中真紀子さんが文部大臣になったときにも、新設学部学科の認可を拒否したということがありました。認可の基準を満たしていなかったわけではなく、審査は通ったのだけれど、大臣が「これ以上大学定員を増やすわけにはゆかない」と言って反対したのです。田中さんらしい雑駁な議論でしたけれど、言っていたことは筋が通っていた。確かに大学数が多すぎる。人口はどんどん減っているのに、学部学科の定員は増え続けている。これはどうしたってそのうち破局的な事態になる。なんとかしなければいけない。でも、どうやって調整するかということになると、調整するためのロジックを文科省は持っていなかった。<br />
  1490. それまでは18歳人口が増えて来るのに合わせて大学に臨時定員増を認めていました。大学に進学希望する子どもの数が増えているのだから、できるだけ多く受け入れてあげましょうというのはロジカルです。でも、それなら18歳人口が減ってきたら、大学の定員を減らして、受け入れ数を調整しましょうというのがロジカルなのですけれど、それができなかった。<br />
  1491. 僕はその当時文科省の私学教育課長の方と対談したことがあります。その時に聞きました。「18歳人口が増えるからという理由で定員増したわけですから、人口減になったら定員減を大学に求めるべきでしょう。18歳人口が前年比95%になるなら、全大学に受け入れ数を前年比95%にしなさいと行政指導できないんですか? そうすれば、どの大学も志願者確保のために駆けずり回らなくてもいいし、教育水準も維持できるし、学校経営の危機もいきなりは来ないから、経営の難しい大学はゆっくりとダウンサイジングしながら軟着陸の手立てを考えることができるんじゃないですか」と。でも、一笑に付されました。文科省にそんな力ないですよって。どの大学が進んで定員減なんか言い出すものですか、と。<br />
  1492. 確かにその通りでした。むしろ、大学の経営陣は18歳人口が減り出すと、いきなりビジネス・マインデッドになってゆきました。その頃からどの大学でも財務を担当してきたビジネスマン的な人たちが発言権を持つようになりました。彼らは研究者でも教育者でもありません。この人たちは基本的に株式会社をモデルに大学経営を考えていますから、「右肩上がり」を前提にものを考えます。マーケットが縮むから、生産数を減らそうなんてことは考えません。いや、どうやってマーケットを拡大したらいいのか、どうやって顧客をこちらに向かせたらいいのか、どういう教育プログラムを整備すれば消費者である高校生やその保護者に選好されるか、そういう「集客戦略」を語る。「危機の時こそ一気にシェアを取る絶好のビジネスチャンスなんですよ」というようなことを言う人相手に「じわじわ定員減らしましょう」というような後ろ向きの提案をしても一顧だにされない。<br />
  1493. 文科省は、確かに学校教育を司る省庁として当然ですけれど、国民の就学機会を増やしていく、教育機会を充実していくということに関しては、明確な使命感も持っていたし、理念もあった。けれども、縮めて行くということに関しては何のプリンシプルも持っていなかった。増やすノウハウはあったけれど、減らすノウハウはなかった。だから、「マーケットに丸投げする」という無原則的な対応をとったのです。「マーケットは間違えない」からという理屈で。このとき日本の教育行政に初めて市場原理が本格的に導入されたわけです。どの教育機関が生き残り、どこが退場するかはマーケットが決定する、と。他の商品と同じです。商品をマーケットに投じる。消費者がいくつかの競合商品の中からあるものを選択する。選択された商品は生き残る。選択されなかった商品は不良在庫になって、やがて会社は倒産する。それと同じことを大学にも教育機関にも適用したらいいじゃないか、と。それ以外に過剰に存在する教育機関を淘汰する方法がない、と。そういうことで90年代はじめに学校教育の適否はマーケットが決定するということについての国民的合意が形成されたのです。<br />
  1494. 今にして思うと、あの時にもう少し議論を練るべきでした。そんなに簡単に学校教育の適否の判断を市場に委ねていいのか。実際にはかなりジャンクな商品であっても、商品イメージの設定が巧みで、広告が適切だったら、消費者は買います。「消費者は神さま」ですから、消費者が質のよい商品を棄てて、質の悪い商品を選んでも、それは消費者が正しいということになる。学校についてもそのようなことが起きるかもしれないけれど、それでもいいのかという議論は誰もしなかった。消費者に選好される教育機関は「よい学校」であり、消費者が見向きもしない教育機関は「要らない学校」だということに衆議一決した。「社会的ニーズ」に見合った教育商品を提供できない学校は消えるしかないというシニカルな断定に誰も反論しなかった。「ニーズ」という言葉が大学の中で繰り返し口にされるようになったのが、90年代半ばからです。それまで僕が学生院生だった70年代も、教員をしていた80年代も、そんな言い方で教育を語る人なんか教員の中にはいませんでした。でも、ある時点から、「ニーズ」とか「マーケット」とか「コストパフォーマンス」とかいうそれまで使われたことのないビジネス用語が大学の会議でもふつうに口にされるようになった。今はもうそれがふつうになりましたけれど、こんなふうな言い回しを大学の教員が言い出したのはわずか20年くらい前からなんです。<br />
  1495. そもそも学校の建学の原点に立って考えたら、「ニーズ」なんて言葉が出てくるはずがないんです。今日も冒頭に北星学園の建学者の話が出て来ましたけれど、この学校がどうしてできたかという根本に立ち返って考えてみたら、その時点で「マーケットのニーズ」なんてないんですよ。全然。北星のスミスさんという建学者も、神戸女学院のタルカットさん、ダッドレーさんも、誰も呼んでいないのに、アメリカから来て建学したわけです。神戸女学院の二人の女性宣教師はアメリカン・ボードという伝道団体から派遣されて神戸に来ました。彼女たちが日本に来るとき、サンフランシスコから船に乗ったわけですけれど、乗船時点では日本はまだキリスト教禁制下だったのです。江戸時代のご法度がそのままだった。幸い、日本に着いた時には「キリスト教禁止」の高札が下ろされた後でしたので、違法にならずに伝道活動ができた。でも、アメリカを出る時に、彼女たちの教育内容に対する「市場のニーズ」なんていうものは日本国内のどこにもなかったんです。<br />
  1496. 消費者が選好するような教育プログラムを提供する教育機関にだけ存在理由があると平然と言い放つ学校経営者がいますけれど、もし明治時代にそんなことを言っていたら、日本の私学のほとんどは今存在していないということを少し考えた方がいいんじゃないかと思います。明治自体にも「そういうこと」を公言する人たちばかりであったら、その人たちが卒業した大学そのものが実は存在していなかったかも知れないということ彼らはを想像することができないのでしょうか?<br />
  1497. 消費者も、市場も、ニーズも、何もないところに建学者たちはやってきて、そこに学舎を建てたのです。そしてそれから、「そこで学びたい」という人たちを創り出した。学校に先立って学びたい人たちがいたわけじゃありません。学校を作ったことによって「そこで学びたい」という人たちが出現してきたのです。ことの順序を忘れてはいけません。<br />
  1498. 建学者たちは、自分たちは「こういうことを教えたい」という旗を掲げた。こういう教育がこれからの日本には必要なのだ、日本の次世代を担う若い人に必要なのだと説いた。その熱い言葉に反応して、「学びたい」という人が出現してきた。「こういうことを学びたい」という子どもたちがまずいたのではなく、「こういうことを君らは学ばなければいけない」と力強く語った人がいて、その先駆的な理念に反応して、「もしかすると自分の中にあるぼんやりした欠落感は、この学校に行って、この先生に就いて学んだら満たされるんじゃないか」というふうに感じた若い人たちが出て来た。<br />
  1499. 教育を受ける人たちというのは、教育活動に先立って存在するわけじゃありません。「教えたい」というメッセージがまずあって、それに呼応して「習いたい」という人が出てくる。呼応するというより、同期ですね。禅語で言うところの「啐啄の機」です。「啐啄の機」というのは、卵の殻を外側から母鳥が突き、内側から雛鳥が突き、両方の嘴が合ったときに卵の殻が割れて、母と子が出会う、師と弟子が出会うという、そういう状況を言うものですけれど、学校教育における教師と生徒の関係も本来はそういうものだと思います。<br />
  1500. でも、同期とはいいながら、やはり殻をつつくのは母鳥が先です。教えるのは師が先です。「私はこれを教えたい」ということがある。その「教えたい」ことについて、確信があり、情熱があれば、必ずそれに反応して「学びたい」という人が登場してくる。<br />
  1501. ですから、この学校もそうでしょうけれど、ほとんど全部の私学は建学の時は「持ち出し」なわけです。建学者は私財を投じて、身銭を切って学舎を作り、教員を雇い、生徒たちが集まるのを待った。教育事業に入れ込んで家産を傾けた人だっているわけです。もともとビジネスじゃないのです。「こういう知識や技能を身につけたい」という生徒たちがぞろぞろ集まって来て、彼らが差し出した学費で学舎の建設費用や教師の給料が賄えそうだから、「じゃあ学校作ろうか」なんていって学校を始めた人なんかいません。採算やらニーズやら言っていたら学校なんか始められません。<br />
  1502. 先ほど、理事長室でも話題に出たのですけれど、ビジネスマンが学校をやったら、何が始まるか。ある経営者がこちらの学長に「大学というのは儲かるようですね。私にもできますか」と訊ねたんだそうです。びっくりして理由を訊いたら「だって、大学って四月に授業が始まる前に、学納金が全額入るわけでしょう。まだ商品を売る前に代金が先に入ってくるなんていううまい商売この世にありませんよ」と言われたそうです。<br />
  1503. 確かに、ビジネスマンはそういうふうに考えるんです。まだ授業を何もしていない段階で、代価が全額納入されている。こんな確実な商売はありません。売り上げ金はもう全額手元にある。だったらビジネスマンが次に考えるのは「どうすれば収益を最大化できるか?」です。答えは簡単ですね。コストを最少化すればいい。教育にかかるコストを最少化するためにはどうしたらいいのか。一番簡単なのは、教育をしないことですね。教育活動をやらなければいい。そうすれば、校舎も要らないし、教職員に払う人件費も要らないし、光熱費もかからない。でも、さすがに学費だけもらって授業をしないというわけにはゆきません。許された経営努力は「できるだけ教育にコストをかけないで、教育をしているように見せかける」ことだけです。<br />
  1504. そんなことを考えている学校なんか存在するはずがないと思われるかも知れませんけれど、そういう大学は実際にあるんです。お金だけもらって、授業をやらない大学。授業料を払い込めば、学士号、修士号、博士号だけ出すという大学がある。Diploma millとかDegree millとか言われるものです。たぶん若い教員の方たちはそんな言葉、聞いたことがないと思います。これ、アメリカ発で、80年代、90年代に世界を席巻したビジネスなんです。「学位工場」と呼ばれるものですけれど、教育活動をしない学校です。授業料だけ受け取って、それに対して学位を渡す。日本ではそんな学校認定されませんけれど、アメリカでは違法ではないのです。実体のない大学、ビルの一室を借りて、電話と私書箱だけがある大学。そこが大学を名乗って学位を発行する。そんなもの、ただの紙切れですよ。でも、その紙切れが欲しいという人がいる。博士号を持っているということを履歴書に書いて、名刺に刷って、学位記をオフィスに飾りたいという人がいる。だったらそれはフェアな取引なわけです。学位工場はその顧客をだましているわけじゃないんです。「これはただの紙切れだよ」と言って売っていて、その紙切れを何百ドルか出して買うという人がいる。ジャンクだとわかって売り買いしている。両者合意の上の取引ですから、違法ではない。<br />
  1505. それが80年代、90年代にアメリカからアジア全域にまで広がってきた。だから、今皆さんが必死になってやっている「相互評価」ってありますね。あれはこの流れから出て来たものなんです。学位工場が何百となく登場してきて、インチキな学位記を売りまくり出した。そんなところに「大学」を名乗らせたくない。でも、アメリカには日本みたいな小うるさい大学設置基準なんてない。「大学です」と名乗ることに細かな条件なんかつけない。それを大学として認知するかどうかはマーケットが決める。「マーケットは間違えない」から。そして、アメリカのマーケットは「こういう無内容な大学があってもいいじゃないか」と判断した。<br />
  1506. これに対して対抗措置としてまともな大学が行ったのが「相互評価」です。内容のない学位工場のリストを作って「ここはインチキですよ」ということはできません。営業妨害になるから。場合によっては莫大な損害賠償を請求されるリスクがある。だから、「ブラックリスト」は作れない。だから、その逆の「ホワイトリスト」を作った。教育実績について定評のある大学が集まって、お互いにお互いを「まともな大学ですよ」と保証するということをした。それが「アクレディテーション(信用供与)」という仕組みです。それが相互評価の始まりです。いきなり出て来たわけじゃない。学位工場の蔓延がもたらす社会的害悪を阻止するために、まともな大学が集まって講じた自衛措置なんです。<br />
  1507. だから、こんなもの日本の大学でやる理由なんか実は何もないんですよ。だって、日本には学位工場なんてありませんから。内容のない大学はいくらかありますけれど、そんなわずかばかりの大学に低い査定をつけてマーケットに開示するために、日本中の大学が「自分たちはまともです」ということを必死になって自分で証明して、相互に承認し合うなんて無駄もいいところです。日本とアメリカでは国情が違うんですから、日本では相互評価なんか必要ないんです。でも、若い教員の人たちはそんな事情は知りませんよね。大学に就職したら何年も前から自己評価・相互評価ということをやっている。だからなんだかたいへんな手間暇がかかるし、何のメリットがあるかぜんぜんわからないけれど、やらなくちゃいけないらしいからやろう、と。黙って受け入れているんだと思います。でも、これはアメリカにおいては必然性のある制度でしたけれど、日本が真似する理由なんてまったくないものなんです。<br />
  1508. ただ、実際に学位工場が日本に入りかけたことはあったんです。もう少し体裁を整えたものでしたけれど、教育プロヴァイダというものがアジア全域に広がった。でも、どうしても日本には入り込めなかった。それはシステムが全部英語ベースだったからです。学位工場で学位もらおうというような人たちは学力がないので、英語が読めなかったんです(笑)。言語障壁が日本を守った一例です。<br />
  1509. 個人的にも面白い経験がありました。6~7年前のことですけれど、英文の手紙が来て、「あなたは昨年度の世界を代表する100人の哲学者の一人に選ばれました。ついては、賞状と記念メダルをお送りするので150ドル払ってください」って。微妙な金額でしょ、150ドル(笑)。「その年の世界を代表する100人の哲学者」という賞状を客間の壁にかけておいたら、お客さんが「これ何ですか?」 と訊いてきたら、「これはね」ってひとしきり笑えるでしょう。笑いネタとしてなら150ドルを払っても良いかな・・・と一瞬思ったのです(笑)。でも、なかなか人間心理のひだを読んでますよね。1000ドルって言われたら誰も相手にしないし、10ドルと言われてもやっぱり相手にしないけど、150ドルという価格設定が微妙です。その時に、ああ、こういう商売というのはずいぶん洗練されてきたんだなと思いました。日本にいると気が付かないけれど、世界中にそういうビジネスはあるわけです。<br />
  1510. まあ、実際に日本の大学の先生でも、学位工場から博士号買ってしまて、それが後でばれて恥をかいた人がいましたからね。これも、それが話題になったのは、その時だけです。今でも、外国名の大学の博士号なんかについては、履歴書に書かれていたら、果たしてそれがまともな大学か、インチキ大学か、僕たちは手間かけて調べたりしません。<br />
  1511. ですから、たしかにビジネスとして学校教育をやるということはありうるわけです。でも、それは原理的には学位工場が示した通り、本質的には「できるだけ教育事業にかけるコストを少なくする」という仕組みにならざるを得ない。<br />
  1512. 学位工場のことはご存じない方でも、株式会社立大学のことは覚えていると思います。2003年度、小泉政権のときに、例の「構造改革特区」に限っては学校法人ではない事業者が学校を設立できることになりました。そして民間企業が続々と大学経営に参画してきた。ビジネスマンが大学を経営するとどうなるかということのこれが見本ですね。2004年から株式会社立大学が次々と新設されましたが、WAO大学院大学とTAC大学は申請に不備があって却下、LCA大学院大学は三年で募集停止、LECリーガルマインド大学は全国に14キャンパスを展開しましたけれど、2009年に学部が募集停止。サイバー大学はすべての授業をネットで配信するので「一度も大学に登校せずに卒業できます」という触れ込みでしたけれど、レポートを出してくる学生の本人確認ができないのでさすがに文科省からクレームがつきました。その世界遺産学部というユニークな学部は2010年に募集停止。<br />
  1513. 小泉純一郎、竹中平蔵が行った規制緩和の中で出て来た話です。学校教育を学校法人だけにやらせるのはけしからん、と。ビジネスマンが参入できる仕組みを作れば、産業界のニーズにぴったりあった人材育成の仕組みができるに違いないと自慢げに始めたわけですけれど、結果はどうなったのか。株式会社立大学が志願者確保に大成功し、卒業生は引く手あまたというような話はどこからも聞きません。でも、当たり前なんですよね。どれほど「実学」重視と言っても、ビジネスマンがやる以上、経営努力の最優先項目は「教育にかけるコストを最少化すること」になる他ないんですから。経営努力がまず「いかに教育をしないか」の工夫に向けられるようなところが教育機関として機能するはずがない。今でも「実社会でビジネスの経験をした人間をつれてくれば、世間知らずの大学教員なんかには真似のできない実学教育ができる」というようなことを言う人がいますけれど、そういう人たちに「では、株式会社立大学はなぜ失敗したのか」、その理由をきちんと説明して欲しいと思います。でも、「ビジネスマンに学校教育をやらせれば大成功する」と主張する人たちの誰一人「株式会社立大学の末路」については言及しない。それはもう「なかったこと」になっているらしい。<br />
  1514. 大学教育の劣化は深刻な事態ですけれど、大学人自身が大学教育が劣化しているという事実を直視していないことが最大の問題です。それがどういう歴史的経緯で出て来たものかということを検証していない。だから、どうすれば大学の生産力を回復できるかという議論が始まらない。<br />
  1515. でも、なかなか気がつかないんです。日本の大学だけ見ていると。「何か最近の学生は活気がないね」とか、「最近の学生は漢字が読めない」とか「英語ができない」とか言っているだけです。でも、「どこでもそうだよ」と教えられると、納得してしまう。あのですね、それは日本の大学ばかりが地盤沈下しているということなんです。沈みかかっている船の中でお互いの顔を見ていて、「何も変わっていない」と思っているけれど、実は船自体が沈んでいる。<br />
  1516. だから、今、政治家とか財界人とかは、もう自分の子どもを日本の学校にやらないでしょう。中等教育から海外ですよ。スイスの寄宿舎とか、ニューイングランドとか。<br />
  1517. あるところで一緒になったビジネスマンが日本の学校教育がいかにグローバル化に遅れているかを難じた後に、「だから、私は子どもを日本の学校なんかにやらないで、ハイスクールからアメリカに出しましたよ」と自慢げに言っていました。僕はそういう人には日本の学校教育についてはあまり提言とかして欲しくないと思いました。この人は日本の学校教育はダメと判断して、子どもをアメリカに留学させたわけです。それなりに手間暇もかかるし、お金もかかるし、親子離れ離れで暮らすのもけっこう切ないものです。それだけの個人的な代償を支払った以上、「日本の学校教育を見限って留学させた私は正しかった」ということをぜひとも確信したい。そして、自分の選択が正しかったということは、彼が「ダメ」と判定した日本の学校教育を受けた人間たちが自動的に社会の下層に格付けされ、苦労してアメリカで学位を取ってきた人間が高く格付けされるような社会が到来することでしか証明されない。ですから、これ以降、彼は日本の学校教育が失敗し、日本で学校教育を受けた人間が「使い物にならない」という状況の到来をつねに切望するようになる。これは無意識の欲望ですから、止めることができない。うっかり、そのあと日本の学校教育が改善されて、子どもたちの学力が向上して、「留学なんかする必要がなかった」ということになったら、彼の判断は間違っていたことになる。それは困るわけです。人間というのは、そういう哀しい生き物なんですよ。自分の判断が正しかったことを証明するためなら、多くの人が不幸になるような事態が到来することを心待ちにする。心待ちにするどころか、そうなるように自分から積極的に働きかける。そういう人間の心理って、あるんですよ。だから、横で話を聞いていると、この人はどう考えても日本の学校教育がどんどんダメになるような提案しかしないんです。彼にとっては日本の学校教育が劣化した方が彼の先見性を証明してくれるわけですから、そんなことをしたら研究も教育も破綻してしまうような提案ばかりしていました。<br />
  1518. そういう意識的あるいは無意識的な、有形無形のさまざまな干渉によって日本の学校教育は21世紀に入ってから急激に劣化してきているのです。それが特に高等教育によって際立っているわけですけれども、中等教育に波及するのも時間の問題です。<br />
  1519. 僕が今18歳の高校生で、進路をどうするか決めなければいけない時期になったら、「できたら日本の大学には行きたくない」とたぶん言うと思うのです。親に泣きついても「海外に行かせてくれよ。お金がかかるかもしれないけれど、必ず返すから」と言うんじゃないかという気がします。今自分が18歳だったら。日本の大学には行ってもしようがない気がするから。それは別に統計的な根拠があるとか、海外のジャーナルから批判されているからとか、そういう理由のあることではなくて、直感としてです。なんか夢がない。大学というところが「つまらなさそう」のように見えるからです。みんな暗い顔をしている。教師が疲れ切れていて、不機嫌で、苛ついている。学生もさっぱり楽しそうじゃない。<br />
  1520. 教師が不機嫌というのは、もう中・高・大全部そうです。膨大な量の事務に押しつぶされているからです。会議と書類書きで。研究教育成果を上げるための会議と書類書きで、研究教育のための時間がどんどん削られている(笑)。本当に、そうなのです。国公立大学の場合、独立行政法人化からあとはカリキュラム改革、学部改組、グローバル化、自己評価とか、そういう次々と押し寄せる「雑務」を担当させられてきたのは、多くが30代・40代の若手の教員でした。仕事ができて、体力のある教員にこういう仕事は回ってくる。でも、「こういう仕事を手際よくこなす」という評価がいったん与えられたら、あとはずっと「そういう仕事」ばかり回ってくるようになる。そういうことばかりで10年間が過ぎたというような教員が日本中に何百人何千人といるわけです。研究者として一番脂がのりきった時期に会議と書類書きに明け暮れた人たちが。この人たちがその時間を研究に充てていた場合に生み出された学術的成果のことを思うと、僕は絶望的な気分になります。<br />
  1521. 日本の論文数が急激に減り出したのは、2004年の独立行政法人化以後ですけれど、それは当たり前なのです。でも、じゃあどうすれば低下した学術的生産力を復元させて、海外の大学と競合できるようになるのかが問題になると、その課題に答えるためにまた会議が行われ、書類を書かされる。さらに研究は停滞する。そんなばかばかしいことを全部止めてしまえば日本の大学の研究教育の力は回復します。大学人であれば、誰でも内心はそう思っているはずです。教員たちを研究教育に専念させる。夏休み春休みをたっぷり与える。サバティカルで在外研究の機会を与える。それだけのことで論文数なんか一気にV字回復します。誰だってそれはわかっている。でも、今進んでいるのは、それとまったく逆の方向です。さらに教員たちへの負荷を課して、さらに研究教育機会を減らし、教員たちの自尊心を傷つけ、不機嫌な気分に追いやるような制度改革ばかりしている。<br />
  1522. 多くの教員は、研究教育が好きだからこの仕事を選んだのです。それに専念できる環境が整備されれば、給料なんか安くても喜んでこの仕事をします。多くの先生方が早い人は50代で定年前に仕事を辞めてしまう。理由を聞くと「もう会議をしたくない」という方が多い。会議がなくて、研究教育に専念できるなら、こんな楽しい仕事はない、と。そうすれば、学校はもっと明るくて、もっとイノヴェーティヴな場所になるだろうと思います。<br />
  1523. 大学に成果主義を導入したのも大失敗でした。実は僕は成果主義導入については「戦犯」の一人なんです。神戸女学院大学は日本の私学で最も早く教員評価システムを導入した大学の一つですが、その時にFD委員長として旗振りをしたのは僕です。<br />
  1524. その頃は働いていない教員が目についたのです。学務をほとんどしない。研究もしない。何年も論文一本も発表しない。教育も手抜きという教員が目についた。そういう人たちが大きな顔をしているのが許せなかった。だから、研究、教育、学務の三分野で教員たち一人一人の活動成果を数値化して、全教員をそれに基づいて格付けして、予算を傾斜配分し、昇給・昇格にもそれに反映という、新自由主義者丸出しの案を提出したのです。もちろん教授会では批判の十字砲火を浴びましたけれど、「これからはビジネスマインドがないと、大学はマーケットに淘汰されてしまう」と訴えて、「危機の時代を生き残るためには限られた研究教育資源を活用しなければならない。そのためには、アクティヴィティの高い教員に資源を集中する。『選択と集中』だ」ということで教授会を説得しました。でも、始めて1年もしないうちに自分が取り返しのつかない失敗を犯したことを思い知らされました。<br />
  1525. 教員の活動成果の客観評価なんて無理なんですよ。担当しているクラス数とか、論文指導している院生数とか、委員をしている委員会の数とか、そういうものはたしかに簡単に数値として拾えます。でも、研究成果の数値化はできない。僕は刊行論文数ぐらいはそのまま数値化できるだろうと楽観していました。でも、それさえできなかった。委員会でいきなり「1年に5冊も6冊も書き飛ばす人間の書いた一冊と、20年かけて書いた一冊を同じ扱いにするのか」と言われて絶句してしまったからです。「1年に5冊も6冊も書き飛ばす人間」というのはもちろん僕のことなんですけれど(笑)。たしかにご指摘の通りなんです。一冊の本といってもそれぞれの学術的価値には場合によっては天と地ほどの隔たりがあります。それを「1冊何点」というふうに機械的に配点して、その多寡を比較しても意味がないといったら意味がない。言われてはじめて気がついた。著作や論文は何冊何本書いたということよりも、学術の歴史の中で、どのような地位を占めることになるのかというもっと長い時間的スパンの中で評価しなければほんとうの成果を見たことにはならない。<br />
  1526. 勤務考課についてもそうでした。考えてみたら、公正で客観的な考課ができる人なんか数が限られているわけです。同僚たちの日常の学務への貢献をきちんと評価できて、同僚たちから「あの人の下した評価なら信頼性がある」と思われている人に任せるしかない。でも、そんなフェアで目の行き届いたはだいたい研究者としても一流の仕事をこなしているし、すでに学長とか学部長とかになっているわけですよ。ただでさえ学務に忙しいそういう方々にさらにピアレビューの仕事を押しつけてしまった。でも、そんな格付け作業なんか、いくらやっても大学全体としての研究教育のアウトカムは少しも増えるわけじゃないんです。むしろこれらの「仕事ができる人たち」の研究教育学務のための時間を削るだけだった。<br />
  1527. やってみてはじめて知ったのは、成果主義がどれほど膨大な「評価コスト」を要求するかということでした。それを事前にはまったく想定していませんでした。それに、単一の「ものさし」で教員たちを一律に格付けしてみても、それで全体のアクティヴィティが高まるということも起こらないということにも気がつかなかった。アクティヴィティの高い先生たちは、考課して点数なんかつけなくても、やることはやるし、研究も教育も学務ももともと手抜きという教員たちは、低い評価をつけても別に反省するわけじゃない。ただ「こんな評価システムには何の意味もない」と不機嫌になるだけです。ただそれだけのことでした。教員評価に要した膨大な評価コストはもともとアクティヴィティの高い教員たちにのしかかって、彼らの研究教育活動を妨げただけで終わってしまった。自分の「選択と集中」理論がどれほど愚かしいものであったかをそのときに気づきました。以後、「ああいうこと」をやってはいけませんということをお知らせするために、こうやって全国行脚をしているわけです(笑)。成果主義は絶対にやってはいけません。大学における成果主義は何一つ良きものを生み出しません。<br />
  1528. シラバスもそうです。あれも全く無駄な仕組みです。でも、シラバスを整備するために教員たちはやはり大変な作業量を費やしている。<br />
  1529. シラバスというのは商品の仕様書です。缶詰や薬品についているスペックと同じものです。この商品には何が含有されているか、効能は何か、賞味期限はいつまでか、それを消費者のために表記するものです。でも、学校の授業は乾電池や洗剤とは違います。授業というのは「なまもの」です。1年前に1年後にどんな授業をするのか事細かに書けと言われたって書けるはずがない。専門科目の場合、僕は自分がその日に話したいことを話す。でも、自分が1年後の何月何日にどんなことに興味を持っているのかなんかわかるはずがない。だから「人間について考える」とか「言語について考える」とか、そういうふうな漠然としたものしか書けない。<br />
  1530. 僕が教務部長だった頃に「シラバスをもっと精密に書くように」というお達しが文科省からありました。でも、僕は教授会で「そんなに詳しく書くことはありません」とつい口が滑ってしまった。そしたら、何も書かずにシラバスが白紙という人が出て来た(笑)。そしたら翌年、助成金が削られました。経理部長からは厭味を言われました。「内田先生のせいですよ」って。<br />
  1531. 僕はこの時猛然と文科省に対して腹を立てました。僕はシラバスは教育的に意味がないと判断したので、書かなくていいと言ったのです。別にそれは思い付きではなくFD委員長をしていたときの何年間かのアンケート結果を統計的に処理した結果、「授業満足度」と「シラバス通りに授業をしているか?」という問いの回答の間には有意な相関がないということがわかったからです。それ以外のことは「教員の板書はきれいか?」でも、「時間通りに授業を始めるか?」でも「授業満足度」との相関があった。数十の質問項目の中でたった一つ何の相関もないことがわかったのが「シラバス通りに授業をしているか?」という問いだった。だから、意味がないと僕は思ったのです。文科省は「シラバスは教育効果がある」と思っているからそれを精密に書くことを大学に要求してきたわけでしょう。だったら、その根拠を示して欲しい。もし、文科省が「シラバスを精密に書き、シラバス通りに授業をすると教育効果が高まる」という統計的なエビデンスを持っているなら、それを示して欲しい。僕だって学者ですから、エビデンスを示されたら引っ込みます。こっちはせいぜいサンプル何千という程度のデータです。文科省が何十万かのサンプルに基づいて「シラバスの有用性」を証明してくれたら「すみません」と頭を下げます。でも、文科省はそうしないで、ただ助成金を削ってきた。今はシラバスを英語で書けとか、同僚同士で他人のシラバスの出来不出来を査定しろとか、どんどん仕事量が増えていますけれど、そういうことにどのような教育効果があるのか。どんなデータがそれを証明しているのかについては何の情報も開示されていない。これはおかしいでしょう? ことは研究教育に関する話なんですから、研究教育の成果が上がったという実績があることを示した上で実施を求めて来るべきじゃないんですか? でも、文科省はエビデンスを示して、反論することをしないで、ただ金を削っただけでした。これは文科省の方がおかしいと僕は思います。反論しないで代わりに金を削るというのは「人間は条理によってではなく、金で動く」という人間観を文科省自身が開示したということですから。大学人であっても、「やれば金をやる。やらなければ金をやらない」と言えば、したくないことでも、明らかに無意味に思われることでもやる。文科省は人間というのは「その程度のものだ」と思っている。思っているどころか、人間は「そうあるべきだ」と告知している。仮にも文科省は国民教育を専管する省庁でしょう。そこが「人間は条理ではなく、金で動く」というような人間観を披歴して恬として恥じないというのは、どういうわけです。僕は教育活動は効果があることが経験的に知られているものを行う方がいいと思って、そう言った。それに対して教育効果があろうとあるまいと、「お上」の言うことに黙って従え、従わないものには「金をやらない」と文科省は回答してきた。これは事大主義と拝金主義が「日本国民のあるべき姿」だと彼らが信じているというふうに解釈する以外にない。<br />
  1532. 先ほども言いましたけれど、日本の教育政策が全部失敗しているという指摘に対して、「それは違う」と文科省が思うなら、きちんと論拠を挙げてForeign AffairsなりNatureなりに反論して、国際社会に対して日本の教育について大きな誤解があるようだが、これは間違いであるということを大声でアナウンスすべきでしょう。反論は簡単です。現に日本の学校教育はこんなふうに成功して、高い成果を上げているという誰もがぐうの音も出ないエビデンスを示せばいいのです。でも、そういう反論はまったくなされていない。<br />
  1533. もう一度申し上げますけれど、学校教育というのはビジネスじゃありません。お金のためにやっているわけじゃない。だから、教育内容に対して「こうすれば金をやる。従わなければ金をやらない」というようなかたちで干渉することは絶対に許してはいけないんです。建学者たちが何をめざして教育を始めたか、その原点を思い出してください。マーケットのニーズがあったので、消費者たちに選好されそうな教育プログラムを差し出したわけじゃありません。「教えたい」という気持ちがまずあって、その熱情に感応して「学びたい」という人が出現してきたのです。教育というのはそういう生成的な営みなわけです。「教えたい」という人と「学びたい」という人が出会うことによって、その場で創造されてゆくものです。その一番基本的なことがビジネスの言葉づかいで教育を語る人たちには理解できない。<br />
  1534. もちろん一流のビジネスマンだったら、ニーズのないところにニーズを創り出すのが創造的なビジネスだということを知っているはずです。映画だって、自動車だって、電話だって、飛行機だって、パソコンだって、市場にまず「こういう商品が欲しい」というニーズがあって、それに応じて商品が開発されたわけじゃない。誰も思いつかなかった商品を提示してみせたら、「それこそ私が久しく求めていたものだ」とみんなが感じて、巨大な市場が生まれた。ニーズがまずあって、それを充足させるような商品やサービスを提供するのがリアルなビジネスだというふうに思っているのは、悪いけれど、二流三流のビジネスマンです。ある程度世の中がわかっていれば、「ニーズのないところにニーズを創造する」のがビジネスの真髄だということは知っているはずなんです。でも、それがわからない人たちが「民間ではありえない」というようなことお門違いなことを言って、学校教育に干渉してくる。そういう学校教育の本質を理解していない人たちが、まことに残念ながら、現在も学校教育、教育行政を司り、学校教育についての政策を起案し、実施しているわけです。ですから、もうあまりわれわれには時間が残されていないんです。仲野徹先生によれば、あと10年です。それまでに学校教育をまともな方向に転換させなければならない。<br />
  1535. どうやって方向転換したら良いのか。一気に変えることはできません。残り時間は少ないけれど、できるところから一つ一つやるしかない。一気に全部を変えるというのはだいたいろくなことになりませんから。とにかく30年かけてここまで悪くした仕組みですから、復元するにしても30年かける覚悟が要る。<br />
  1536. 一つは、とにかく学校をある程度以上の規模にしてはいけないということです。小規模のものにとどめる。教える側からの「教えたい」という働きかけに「学びたい」という人たちが呼応してくるというダイナミックな生成のプロセスの中に巻き込むというようなことは、規模としてはせいぜい数百人が上限だと思います。それ以上大きくなると、管理部門が必要になってきます。研究にも教育にも関係がない部署ですけれど、それがないと組織が回らなくなる。そして、管理部門は必ず肥大化する。これは避けがたいんです。別にそこで働いている人にそういう意図があるわけじゃないんです。意図がなくても、放っておけば管理部門は自己肥大する。そして、組織そのものを「巨大な管理部門が存在しないと機能しないようなもの」に変えてしまう。管理部門に権力も財貨も情報も集中させて、管理部門の許諾を得ないと何一つできないような硬直した組織が出来上がる。これは組織の生理ですから、止めることはできないのです。われわれにできるのは「巨大な管理部門がないと制御できないような大きな組織」にしない、ということだけです。<br />
  1537. これから30年くらいの間に、日本各地の大学は淘汰が進むと思います。でも「マーケットは間違えないから、マーケットに委ねる」ということに合意してしまった以上、今さらこの流れは止められない。<br />
  1538. ただ、今人口減によって各地で交通網の廃止や行政機構の統廃合が行われていますが、統廃合に強い抵抗を示しているのが学校と医療機関であることには目を止めた方がいいと思います。もう人口が減って、需要がない、開業しても採算が取れないとわかっていても、教育機関と医療機関は統廃合にかなり頑強に抵抗する。この二つはマーケットの要請に対して鈍感なのです。<br />
  1539. それも当たり前で、教育機関と医療機関は貨幣や市場経済や株式会社が存在するよりはるか前から存在していたからです。人類史の黎明期から、今から数万年前から、学校の原型、病院の原型は存在していた。どちらも人間が集団として生きてゆくためになくてはならないものだからです。<br />
  1540. 集団が存続するためには、年長者は集団の若い構成員たちに、「生き延びるための術」を教えました。子どもたちの成熟を支援した。そうしなければ集団は亡びてしまうからです。病んでいる人、傷ついている人を癒すことを本務とする人はどんな時代のどんな集団にも必ずいた。そういう人たちいなければ、やはり集団は亡びてしまったから。<br />
  1541. どんな時代でも、教育と医療に携わる人たちは存在した。市場がどうだとか、ニーズがどうだとか、費用対効果がどうだとかいうようなレベルとは違うレベルで「そういうものがなくてはならない」ということについて、われわれは人類史的な確信を持っている。だから、「金にならないから、病人を治療するのを止める」「ニーズがないから、教えるのを止める」というような発想は出てこないのです。<br />
  1542. それに加えて、ミッションスクールの場合は宗教が関与してきます。そのせいでふつうの教育機関よりもさらに惰性が強く、抵抗力が強いのだと思います。社会がどう変わっても、政治体制や経済体制がどう変わっても、こういうものは簡単には変わりません。それは、先ほど挙げた教育、医療に加えて、宗教と司法もまた人類史の黎明期から存在した太古的な社会的機能だからです。こういう仕事に就く人には、ある種の固有の「エートス」があると僕は思っています。「なくては済まされない職業」ですから、歴史的な条件がどう変わろうと、「この職業に就きたい」と思う人たちが必ず一定数は出てくる。<br />
  1543. 人間集団が存続するために絶対に必要な四つの「柱」があると僕は思っています。教育、医療、司法、宗教、この四つです。学び、癒し、裁き、祈りという四つが集団が存続するためになくてはならない四つの基本動作です。集団の若い成員たちに生き延びるための術を教えること、病み傷ついた人を癒すこと、正義を執行すること、死者を悼むこと。この四つの機能はどのような集団であれ、集団が集団として持続するためにはなくては済まされないものです。それに比べたら、市場経済だとか商品だとか貨幣だとかいうものは、あってもなくてもどうでもいいものです。<br />
  1544. はるか太古の人間集団がどういうものだったか想像すれば、わかるはずです。集団の若い成員たちの成熟を支援するのは、集団が生き延びるためです。別に若者たちを査定したり、格付けしたり、選別したりするために教育をしたわけじゃない。生き延びるための術を教えておかないと、死んでしまうから教育したのです。狩猟で暮らしている集団なら狩りの仕方を、農耕で暮らしている集団であれば植物の育て方を、漁労で暮らしている集団なら魚の取り方を教えた。生きる術をきちんと伝えておかないと、彼らが飢えて死んでしまうからです。<br />
  1545. だから、「大人たち」が「子どもたち」に向けて教育を行う。教育の主体は複数ですし、教育の受け手も複数です。なぜ教育を行うのか、それは共同体の存続のためです。教育の受益者は個人ではなく、集団そのものなのです。<br />
  1546. 市場経済の原理で教育を語る人たちには、このところがわかっていない。彼らは教育というのをある種の「商品」だと思っている。そこでやりとりされている知識や技術や情報を、自動車や洋服と同じようなものだと思っている。欲しい人が金を出して買う。金がたくさんあれば、よい商品が買える。金がない人はあきらめる。それが当然だと思っている。たしかに、「自動車が欲しい」という人が「あの自動車が欲しいので、税金で買って僕にください」と行政に頼み込むということはありえません。それは自動車を所有することの受益者が個人だからです。でも、教育は違います。教育の受益者は集団全体です。だから、集団的に教育事業は行わなければならない。だから、「義務教育」なのです。大人たちには子どもを教育する義務がある。そうしないと集団が存続できないから。<br />
  1547. 市場原理で教育を考える人はどうしてもこの理路が理解できない。それは彼らが教育の受益者は個人だと思っているからです。個人が学校に通って、それなりの授業料を払い、学習努力するのは、その成果として、有用な知識や技能や資格や免許を手に入れて、それによって自己利益を増大するためだと思っている。それなら、確かに学校教育にかかるコストは受益者負担すべきものです。金があるものが学校教育を受ける。ないものは受けない。それがフェアだという話になる。<br />
  1548. 公教育に税金を投じるべきではないと本気で思っている人たちがいる。これは昔からいたのです。アメリカの「リバタリアン」というのがそうですね。彼らは公教育への税金支出に反対します。人間は一人で立つべきであって、誰にも依存すべきではない。勉強して、資格や免状が欲しいなら、まず働いて学資を稼いで、それから学校に行けばいいと考える。だから、公教育への税金の投入に反対する。<br />
  1549. 同じようなことを思っている人はもう日本にも結構います。教育への公的支出のGDP比率が先進国最低だということは先ほど申し上げましたけれど、それはこういう考え方をする人が日本の指導層の中にどんどん増えているということです。彼らは教育の受益者は個人であるから、教育活動に公的な支援は要らないと考えている。口に出して言うと角が立ちますから大声では言いませんけれど、内心ではそう思っている。消費者たちが求める「個人の自己利益を増大させる可能性の高い教育プログラム」(これを「実学」と称しているわけですが)を提示できた教育機関だけが生き残って、「市場のニーズに合わない」教育プログラムしか提示できなかった学校は「倒産」すればいいと思っている。これは大声で公言してはばからない。<br />
  1550. でも、そんなことをして共同体は維持できるのか。僕はそれを懸念しているのです。何度でも言いますけれど、教育事業の受益者は個人ではなくて、集団全体です。次世代の市民的成熟を支援しなければ、集団がもたない。教育する主体は「大人たち」全員であり、教育を受ける主体は「子どもたち」全員です。大人たちはあらゆる機会をとらえて子どもたちの成熟を促すことを義務づけられている。<br />
  1551. 日本の場合、大学の75%が私学です。つまり、国ではなく、個人としての建学者がいて、固有の建学の理念があって、それを教育実践を通じて実現しようとした。「教えたい」という人たちがいて、「学びたい」という若者たちが集まってきた。私学の場合には、その建学の原風景というものを比較的容易に想像することができます。時代が経っても、建学者の「顔」が見える。それが私学の一番良い点だと思います。<br />
  1552. 僕は30年ほど大学の教員をして、退職してから神戸市内に凱風館という1階が道場で2回が自宅という建物を建てました。自宅ですから、私費を投じるのは当たり前ですけれど、身銭を切って学びの場を作ったのです。別に市場のニーズがあったからではありません。もちろん、それ以前から門人はいましたから、彼らは道場ができて喜んではくれましたけれど。とにかく自分が教えたいことがあるから、身銭を切って道場を建てた。稽古したい人たちが1年365日、好きなだけ稽古ができる場をまず建てて、それを公共のものとして提供した。そこで門人たちが日々修業している。それは僕が僕の師匠から継承した武道の思想と技芸を伝えていく使命感を感じたからです。自分が先人から学んだことを、次世代に伝えなければならないと思っているから、学舎を建てた。僕の周りでも私塾を始めた人たちがたくさんいます。平川克美、名越康文、茂木健一郎、釈徹宗、鷲田清一・・・何人もがやはり身銭を切って私塾を始めています。みんな明治時代に日本に私学ができた時の原風景をもう一度思い出して欲しいと思っているのかも知れません。<br />
  1553. 僕の道場は今門人が350人います。でも、これがもう上限だろうと思います。この程度のサイズでしたら、マーケットもニーズも関係ない。僕が自腹を切れば、学びの場を建設し、管理運営することができる。門人が一時的にゼロになっても僕がやせ我慢をすれば道場を閉めずに済む。それくらいの低いランニングコストでないと、ほんとうにやりたいことは持続するのが難しいだろうと僕は思います。これは今の市場原理による学校教育のあり方に対する僕からのアンチテーゼです。こういうことだってできるということをかたちで示したい。<br />
  1554. 今日本はピークアウトして長期低落期に入っています。これ以上ひどいことにならないうちに、できるところから何とか手当をしなければいけない。一人一人がそう考えて、できる範囲で崩れてゆくものを押しとどめ、失敗を補正してゆけば、破局的な事態は少しずつ先送りできると思います。<br />
  1555. それでもいまだに経済成長とか成長戦略とかいう虚しいことを言っている人たちがいます。五輪とか万博とかカジノとかリニア新幹線とか、古いタイプの産業社会のモデルにまだこだわって、「選択と集中」で起死回生を願っている人たちがまだまだ多くいますけれど、それは貴重な国民資源をどぶに捨てるような結果にしかなりません。<br />
  1556. 日本の国力がピークアウトしたのは2005年です。何の年か覚えていますか。2005年というのは小泉内閣の時です。その時、安保理の常任理事国に立候補したけれど、アジア諸国の支持を集めることに失敗して常任理事国入りを果たせなかったのです。共同提案国になってくれたアジアの国はアフガニスタン、ブータン、モルジブの三国だけでした。<br />
  1557. すでにバブル経済は崩壊した後で、日本経済は失速しており、ここで政治大国として国際社会に存在感を示すというのがいわば最後の賭けだったのですが、それがはなばなしく挫折した。これはけっこう大きな歴史的転換点だったと思います。国際社会から日本への期待というのがどれほど低いのか、それが骨身にしみてわかった。これが大きかったと思います。世界的な政治大国だと思っていた自尊心を深く傷つけられた。それからですね、日本がおかしくなってきたのは。<br />
  1558. それから12年が経った。もうずっと長期低落局面です。でもまだ「負けしろ」はあります。まだまだ日本は豊かです。温帯モンスーンの豊かな自然に恵まれ、社会的インフラは整備されているし、治安も良いし、観光資源もあるし、食文化もエンターテインメントも高い水準を誇っている。国民資源を見たら世界有数のストックがあります。たしかにフローのレベルでは勢いが落ちているけれども、ストックは豊かです。だから、この豊かなストックをどうやって生かすか、どう使い回すか、それが問題です。<br />
  1559. 大学だって数が多すぎると言われていますけれど、高等教育機関が多すぎるというのは、よく考えたらすごいことなのですよ。研究者がいて、教員がいて、教室があって、研究設備があって、図書館があって、体育館があって、緑地があって、プールがあって、宿泊施設があって・・・これだけの教育資源がある。単年度の志願者と募集定員の需給関係で考えるから「多すぎる」と判定されますけれど、長期的に見れば貴重な資源です。これをニーズがないからと言って、駐車場にするとか、スーパーに売るとかいうのはあまりにもったいない。他にどういうふうに活用できるのか、それを考えるべきなんでだと思います。<br />
  1560. 日本がこれ以上崩れないように、どこかでターニングポイントを迎えることができるように、発想を切り替えないといけないと思います。僕に何か特別な知恵があるわけではありません。とにかく「衆知を集めて」対話する、みんなで知恵を出し合ってゆきましょうということに尽きると思います。<br />
  1561. 今日は学校教育の危機的現実を直視した上で、どうすれば次世代の人たちに生きる知恵と力を与える学びの場を確保できるのか、それについてみんなで知恵を絞りましょうという話を致しました。僕も微力ながら一所懸命知恵を絞り、一臂の力をお貸したいと思っております。皆さん方のご健闘を祈念しております。ご清聴、ありがとうございました。</p>]]>
  1562.      
  1563.   </content>
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  1566.   <title>変節と変態について</title>
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  1568.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1820</id>
  1569.  
  1570.   <published>2017-08-28T02:30:51Z</published>
  1571.   <updated>2017-08-28T02:37:01Z</updated>
  1572.  
  1573.   <summary>信州岩波講座というイベントで加藤典洋さんとご一緒した。「変わる世界 私たちはどう...</summary>
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  1578.  
  1579.  
  1580.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  1581.      <![CDATA[<p>信州岩波講座というイベントで加藤典洋さんとご一緒した。「変わる世界 私たちはどう生きるか」という総合テーマでの連続講演の第二回目である。<br />
  1582. 主宰は岩波書店と信州毎日新聞と須坂市。もうずいぶん長いこと続いているイベントとのこと。<br />
  1583. 加藤典洋さんが「どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ 激動の時代と私たち」というお題で1時間、僕が「帝国化する世界・中世化する世界」で1時間。その後対談と質疑応答。<br />
  1584. 加藤さんは「どんなことが起こっても『これだけは本当だ』と言い切れる」腹の底にしっかりすわっている身体実感と、「こういうふうに考えるのが正しい」という叡智的な確信の間のは必ず不整合が生じると言う。<br />
  1585. それを二階建ての建物に喩えた。身体実感が一階部分、知的確信が二階部分に当たる。<br />
  1586. その二つが一致しているように思える時もある。けれども、歴史的与件が変わると、二階部分が現実と齟齬するということが起きる。<br />
  1587. 例えば、幕末の尊王攘夷運動における薩長と水戸藩の違い。水戸藩はイデオロギー的にはすっきりしているけれど、現実と齟齬していた。薩長はイデオロギー的には支離滅裂だったけれど現実に適応した。結果、現実に適応して「尊王攘夷」から「尊王開国」に「変節」し、「転向」し、「変態」した薩長が政治的勝利を制した。<br />
  1588. イデオロギー的に「すっきりしている」ことはその組織や運動が持ちうる現実変成力と相関しない。<br />
  1589. これはたいへん重要な指摘だ。<br />
  1590. 私も「ためらい」とか「引き裂かれてあること」とか「ナカとって」とか、言葉づかいは違うけれど、一貫して「話を簡単にしたせいでことが進まないより、話を複雑にして話が進むなら、その方がいい」という立場である。<br />
  1591. それは私が心底イラチだからである。<br />
  1592. 私は無駄が嫌いである。<br />
  1593. 世間には勘違いしている人が多いが、「話を簡単にする」ということは「無駄を省く」ということではない。全然、ない。<br />
  1594. 急がば回れ。Walk don’t run と言う。<br />
  1595. ラテン語の古諺にはfestinatio tarda est 「急ぐことは遅れることである」というのもある。<br />
  1596. 「話を複雑にした方」がほとんどの場合「無駄は省ける」のである。<br />
  1597. というのは、話を簡単にして拙速で出した「成果」はだいたい失敗するからである。<br />
  1598. 後の始末が大変である。まず失敗を認めさせるのに時間がかかる。<br />
  1599. 「早い話が」というようなことばかり言う徒輩は自分の失敗を認める段になると、こそこそ姿を隠したり、うだうだ言を左右にしたりして異常に「話を遅く」するのである。誰とは言わないが、すぐに思い当たるはずである。すでに失敗しているプロジェクトを停止させるのに時間がかかり、それを適正な仕方で補正するのに時間がかかり、逸失利益を補填するのにさらなる時間がかかる。<br />
  1600. 私はそれが嫌なのである。<br />
  1601. 間違っていることが嫌いである以上に、私は無駄が嫌いなのである。<br />
  1602. 加藤さんは私のように「イラチ」ゆえにではないが、身体実感と叡智的な判断の不整合に苦むことで生まれる「変節」や「変態」を人性の自然ととらえる。<br />
  1603. その視点から憲法九条と自衛隊についても論じた。<br />
  1604. その所論は加藤さんの書き物を徴してもらうとして、私の私見を少し書き止めておきたい。</p>
  1605.  
  1606. <p>『戦後入門』で加藤さんが書かれていたように、憲法九条は1946年時点では「リアル」な条文だった。<br />
  1607. 原爆投下の現状を見て、GHQ内部でも理性的にものを考えられる人たちは「次の世界大戦」はおそらく核戦争になること、それは人類の破滅を意味することを学習した。それを防ぐためには「個々の国家は国際紛争の解決法として戦力を用いない。国際連合が専一的に武力を管理する」ということをルールとして採用する以外に手立てがないと思った。<br />
  1608. 日本国憲法は「これから世界中の国々がこの憲法に倣って『九条のような条項』を採択する」ときのモデルになるものとして構想された。<br />
  1609. 後になって「何を理想主義的な寝言をいいやがる」とシニカルに口を歪めて見せるのは簡単だが、はじめて原爆投下の効果を見たときのアメリカ人が感じたショックを過小評価してはいけない。<strong>彼らに「こんなものは二度と使ってはならない」と思わせたのは広島長崎の原爆被害という「生まれてから見たこともない現実」であって、世界平和という「出来合いの観念」ではない</strong>。<br />
  1610. けれども憲法九条のリアリティーは原爆のすさまじい破壊力を「生まれてはじめて知った」世代においては受肉したけれども、東西冷戦の進行と繰り返される核実験を通じて、たちまち風化した。<br />
  1611. 1950年代に量産された「核戦争で世界が滅亡するSF小説やSF映画も」も(クリエーターたちの志とはうらはらに)核実験と同じように「核戦争」をより身近なものに、つまり「耐えやすいもの」に変えてしまった。<br />
  1612. 人間というのはタフな生き物である。<br />
  1613. 世界滅亡のシナリオを毎日読まされているうちに、「世界滅亡のシナリオ」を日常的なものに思いなし、ついには操作可能なものとみなすに至ったのである。<br />
  1614. そして、たしかにあれから72年、原水爆は戦争では使われなかった。<br />
  1615. だから、「核戦争のカジュアル化」というのは一つの有効なソリューションだったのかも知れない。<br />
  1616. けれども、それは「憲法九条を制定させた原爆被害の生々しさ」を風化させることを代償として手に入れられたものである。</p>
  1617.  
  1618. <p>朝鮮戦争という隣国での戦争のために再建された警察予備隊はそれから保安隊・自衛隊というふうに段階的に拡大していった。<br />
  1619. それにすぐに日本人は慣れていった。<br />
  1620. 復員兵たちが軍隊に対して示した激しいアレルギーも、時間が経ち、戦争経験が記憶から薄れるにつれて感知できなくなった。<br />
  1621. そういうものである。</p>
  1622.  
  1623. <p>憲法九条と自衛隊が併存できたのは、この二つの制度が成立したときの圧倒的なリアリティー(「第三次世界大戦で世界が滅亡するかも知れないという恐怖」と「朝鮮半島全域が赤化して、日本列島が『反共の砦』の最前線にとして米軍の軍政下におかれるという予測」)がそれぞれ希薄化し、風化したからである。<br />
  1624. <strong>私はこの二つの「現実になったかもしれない未来」が現実にならなかったことを心からうれしく思っている。</strong><br />
  1625. 憲法九条と自衛隊が併存しうるという「不整合な現実」はこの「ありがたい現実」の裏返しの表現である。<br />
  1626. <strong>憲法九条が「非現実的」に思えるのは、憲法九条が非現実的なものに思えるように、つまり第三次世界大戦の勃発を防ぐことで「あり得たかもしれない現実」をあらしめなかった先人たちの努力の成果なのである。</strong><br />
  1627. 憲法九条が「非現実的」だから改定せよというのは、その先人たち(日本人だけに限らない。世界中で戦争を防ぐために身を粉にしてきた人たち)の努力を蔑することである。<br />
  1628. あらゆる制度は、それがどういう歴史的経緯で生まれ、どういう歴史的与件の変化によって、それが持つ「意味」を変態させていったのか、それを見なければ理解できない。</p>
  1629.  
  1630. <p></p>
  1631.  
  1632. <p><br />
  1633. </p>]]>
  1634.      
  1635.   </content>
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  1638.   <title>釈先生の仏教伝道文化賞・沼田奨励賞受賞のお祝い</title>
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  1640.   <id>tag:blog.tatsuru.com,2017://1.1819</id>
  1641.  
  1642.   <published>2017-08-28T00:41:23Z</published>
  1643.   <updated>2017-08-28T02:45:02Z</updated>
  1644.  
  1645.   <summary>仏教伝道協会の今年度の「仏教伝道文化賞・沼田奨励賞」の受賞者が釈徹宗先生と決まっ...</summary>
  1646.   <author>
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  1648.      
  1649.   </author>
  1650.  
  1651.  
  1652.   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
  1653.      <![CDATA[<p>仏教伝道協会の今年度の「仏教伝道文化賞・沼田奨励賞」の受賞者が釈徹宗先生と決まった。先生のご紹介のための一文を協会から依頼されたので、釈先生の法力について書いた。</p>
  1654.  
  1655. <p>釈先生、受賞おめでとうございます。<br />
  1656. 第五回涙骨賞(『不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者』、新潮選書、2009年)、第五回河合隼雄学芸賞(『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』、朝日選書、2017年)に続く受賞を心からお祝い申し上げます。<br />
  1657. これまでの賞は宗教学者としてのお仕事に対するものでしたが、今回は僧侶としての活動に対するものですので、お喜びもひとしおだろうと拝察します。<br />
  1658. 釈先生は「文武両道」ならぬ「僧学両道」をみごとに実践されています。それについて見聞の一端を語ってお祝いの言葉としたいと思います。</p>
  1659.  
  1660. <p>釈先生とのご縁は共同研究から始まりましたので、実は先生の僧侶としてのたたずまいがどういうものかは、わが家で亡父のお盆のご回向をして頂くまで存じ上げませんでした。その時、墨染の衣の裾を翻して登場された釈先生のご回向によって気持がさっと涼しく開けたことを今も記憶しております。釈先生は博学の宗教学者であるというだけでなく、儀礼を通じて人を癒す力を持っているということをその時知りました。</p>
  1661.  
  1662. <p>その感をさらに強くしたのは、釈先生と二人で主宰している「聖地巡礼」の「京都異界巡り」の時のことです。<br />
  1663. この時は十名余の巡礼部員と連れ立って、紫野、六道珍皇寺、鳥辺山などいささか妖気のこもったところを歩きました。清水寺から下る頃に日が暮れ始め、小雨も降り出し、巡礼部員たちの足取りが重くなってきました。その時、釈先生が大谷本廟の一室に一同を招き入れて、しばらくご法話をして下さいました。終わって外へ出ると、雨雲は上がり、西の青空から明るい太陽が一同の顔をあかあかと照らしました。なんだか気分が軽くなりましたと釈先生を振り返って申し上げると、釈先生が「みなさん、だいぶ非日常に行ってしまわれたので、儀礼を通して日常へ戻ろうと思って」と静かに微笑まれました。釈先生の「法力」をその時実感しました。</p>
  1664.  
  1665. <p>現代の科学では「法力」などというものは「エビデンスがない」ということで存在を否定されるのでしょうけれど、修養を積んだ僧の端正な挙措と儀礼が周囲の空間と人の心の乱れを整える力を持つことことは経験的に確かです。<br />
  1666. 今回の賞が先生のメディアでのご活躍のみならず、伝道者としての「法力」を顕彰するためのものであれば、日ごろ釈先生のお導きに浴する身としてこれにまさる喜びはありません。<br />
  1667. </p>]]>
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